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彼の最後の旅
1959年1月26日、ブルーノ・グルーニングはパリでこの世を去る
診断:ひどく進行した胃癌
1958年晩秋、ブルーノ・グルーニングは1955年5月に再婚した、妻のジョセッテと共にパリに行き、癌専門医のピエール・グルボン博士に診察してもらいました。何枚かのレントゲン写真による診断結果は、進行した胃がんでした。グロボン博士はただちに手術を促しましたが、ブルーノ・グルーニングはこれを拒否しました。
彼はドイツに帰り、会合で行われるクリスマスのお祝いの準備をしました。12月4日のクリスマスの祝典でみんなに聞かせる言葉をカセットに録音しました。その後、彼は再び妻と共に、パリに戻りました。この間、グロボン博士は有名な癌の外科医である、ベランジェ博士と連絡を取っていました。モンマルトルの近くのルー・ヘナー病院に、12月8日、グルーニングは手術を受けるためにやって来ました。結果は医者をびっくりさせるものでした。レントゲン写真から予想された症状より、かなりひどい状態で、もう手術はできませんでした。開かれた傷口は直ちに閉じられました。
驚異的に早い回復
ジョセッテ・グルーニングはそれについて語っています、「彼ら(グロボン、ベランジェ両博士)は、ブルーノは外見的にはそんなひどい苦痛があることを見せず、普通に息をしていること、ここ何週間かの新陳代謝はまだ完全であり、血液像も抜群に良好であったことが理解できませんでした。このように癌が進行してしまった重病人は少し食べても常に吐き戻してしまう様になり、だんだんとやせ衰えていきます。しかしブルーノに関してはこういうことはまったくありませんでした。」
医師たちが驚いたのは、彼がすぐに体力を回復してドイツに帰り、クリスマスのお祝いをしたことです。彼は1959年1月中旬に新しく出来た協会の二人の代表者達と会い、どのようにこれからこの活動を築いていくかについて決めました。二人とも、これがブルーノ・グルーニングとの最後の対面になるとは予想もしていませんでした。
自然豪雨を伴うパリでの手術
1月21日、ブルーノ・グルーニングは再びパリへと飛び発ちました。腸閉塞の手術を受けなくてはなりませんでした。1949年1月22日、午前9時 - 同時刻にミュンヘンでは 上告審 が開始されていました - ブルーノ・グルーニングは再び手術を受けました。何人もの人を、手術を受けなくて済むように助けた彼が、自分自身はこの手術を我慢して受けなくてはなりませんでした、グルーニングは自分自身を助けることは出来ず、それを許されてもいなかったのです。
この手術の朝、彼が麻酔をかけられ寝ていた時、パリは突然ひどい嵐になりました、グルーニングの妻は述べています、「つぎのような自然界の現象も奇妙なことでした。1959年1月22日、夫がまだ麻酔にかかって眠っている間、パリ中が突然真っ暗になり、稲光と雷を伴った嵐となり、日中であるのに明かりをつけなくてはなりませんでした。看護婦は前代未聞のひどい嵐に驚いていました。手術後の数日間は、ブルーノの熱、血圧、脈拍はまったく正常でした。彼は二回も立ち上がり、安楽椅子に座ったほどでした。」
内側は完全に焼き尽くされていた
25日、彼は意識不明に陥り、翌日の1959年1月26日、13時46分、ブルーノ・グルーニングは、ヘンナー病院で、医師の死亡証明に書かれたように、癌で亡くなりました。彼は本当に癌だったのでしょうか?ベランジェ博士は二回目の手術後に述べています、「ブルーノの体内の破壊はひどいものでした、これは体内の完全なるやけどです。どうして彼がこんなに長く、ひどい痛みのはずなのに、ひどく苦しむこともなく生きていることが出来たのか、私には謎です。」
ブルーノ・グルーニングは数年前、既にこれについて述べていました、「人が私の行為を禁止したら、私の体内は焼けてしまう。」
追悼の辞
どのようにブルーノ・グルーニングがこの辛い運命を背負っていたのかは、グロボン博士が1959年2月26日、未亡人に送った手紙の中に立証されています。「これ(ブルーノ・グルーニングに捧げた医師たちの努力)は実に当然の事でした、言わせていただきますが、医師たちは、大いなる勇気と、強い意志と卓越した人格をブルーノ・グルーニングに見出していました。」
ベランジェ博士は更に、ブルーノ・グルーニングに対する賛美を1974年12月に書いた手紙の中で述べています、「ブルーノ・グルーニングは心優しい、そして頑張り通す事のできる貴重な存在の男性でした、そして自分の病気と死を直前にした彼の威厳には、今でも感嘆しています。」
亡骸を荼毘に付した後、消滅した最終裁判判決
ブルーノ・グルーニングの遺体はパリで火葬された後、骨壷はディレンブルグに埋葬されました。
この訴訟 は被告の死去により終了となり、最終判決は下りませんでした。
誰もが自分で救済と治癒を体験できる
何千人もの人々に治癒をもたらした、「ヘアフォルトの奇跡のドクター」は、淋しく見捨てられ、パリの小道で亡くなりました。何故この様な事が起こらなくてはならなかったのでしょう?何故彼はこの辛い苦難を背負わなくてはいけなかったのでしょう?何故彼は自分のことを助けられなかったのでしょう?
グレーテ・ホイスラー(1922-2007)彼女は治癒され、長い間、ブルーノ・グルーニングと共に活動し、「ブルーノ・グルーニング交友会」を設立しました。それについてDas Heil erfahren, das ist Wahrheit 「治癒の体験、これが真実」という本に書いています。「ブルーノ・グルーニングは彼のこの世での短期間の滞在中に多くの善なることを生じさせました。救済と治癒の天分は彼にとって生まれながらのものでした。彼が登場する至る所で、理性では説明することのできない不思議な事が起こりました。1949年、彼は世間に知られました。ヘアフォルトで起こった数々の大治癒により、彼は国内、国外の評判になりましたが、その3ヵ月後には治癒禁止令を受けました。人は彼を追いかけ、追い回し、裁判にかけ、罰し、有罪の判決を下そうとしました。何故?彼は誰かに何か悪い事をしたのでしょうか?誰にもしていません、その反対で、何千人もの人々は他の誰からも得ることの出来ない多くの善なるものを、グルーニングからもらいました。無責任にも人は、彼を罰しようとしました!無責任にも人は、神が彼に与えた使命 - 人を助けること!- を遂行することを禁じました。辛い思いで、彼は癌専門病院で、こうした人々の陰険さに耐えなければなりませんでした。ひどい痛みと共に彼の体内は、他に渡す事を許されない為、体内に貯まってしまったハイルシュトロームによって焼け爛れてしまいました。ドイツにおいて人間によって作られた法律は彼の行為を禁止しました。すべての嘘や中傷の中で、彼はまるで犯罪者のように被告席に座っていました!一人静かに、友の誰一人として知ることもなく、彼は全人類の苦痛を背負いました。彼の忍耐は無駄ではありませんでした!こうするしかありませんでした、人類を救うにはこれしかありませんでした。」
グレーテ・ホイスラーは彼女の著書、Ich lebe, damit die Menschheit wird weiterleben können 「私は生きる、それにより人間が更に生き続けられる様に」の中で書いています。「「犠牲」という言葉を、私たち人間はもっと慎重に用いるべきです。しかし、ブルーノ・グルーニングがパリで亡くなった時には、この言葉の中には、彼の本当の厳しさがありました。」
この犠牲になることだけにより、ブルーノ・グルーニングは彼の言葉を実現することが可能でした、今日でも数え切れないサクセスレポートが証明しているように。「私が人間としてこの世に存在しなくなる時が来たら、つまり私が肉体を脱ぎ捨てる時が来たら、その時人間は、誰でも自分で治癒と救いを体験できるようになります。」
大法廷裁判の続行
控訴審理と法律の修正
グルーニングの不利な出発点
1958年1月の控訴審理 の際、ブルーノ・グルーニングは、彼の側ではなく検察側が控訴したという不利な立場に立たされました。しかし当時の彼の弁護士の不注意が彼の立場を不利にしただけでなく、ブルーノ・グルーニングの新しい法律顧問に渡すはずの書類提出の遅れが審理への準備を妨害してしまいました。
他にも不利な点として、最初の審理に比べ、多くのよりしっかりした反対証人の登場でした。彼らは「医者の禁止」と言う点に関して同意見のようでした。
執行猶予の禁固刑と罰金刑、治癒の質問で明らかにする事も無かったのは「不名誉」
今回の判決内容は、過失致死罪により8ヶ月の禁固刑、そして民間治療師法の違反行為に5,000ドイツマルクの罰金が課せられました。判決は執行猶予となりました。
第一審、第二審を共に法廷で傍聴していたアニー・フライン・エプナ・フォン・エッシェンバッハは、「この判決はドイツの恥である。」と言いました。
ブルーノ・グルーニングはこれについて、自分の善行が罰せられる、と言いました。彼は、全訴訟を通して、誰一人として、自分の弁護士さえ、どうやって治癒が起こるのか、という事に関心を示さなかったと嘆きました。この疑問を追及していたら、彼の行為が医学療法とは何の関係も無い事が明らかになっていた事でしょう。訴訟は中止されなければならなかったでしょう。しかし裁判中、この疑問を明確化することに誰も関心を持ちませんでした。人はグルーニングに対する先入観を持っていて、それを捨てようとはしませんでした。
死の直前の法律修正の提案
しかしこれでもまだ訴訟の終結には繋がりませんでした。今回はブルーノ・グルーニングが上告しました。訴訟の期日は1959年1月22日、ミュンヘンの法廷で開かれる事が決まりました。しかし、ここに至る事はありませんでした。ブルーノ・グルーニングこの月に、この世を去りました。
「彼の言葉が病気を追い払う」
治癒は更に起こり続ける – 法廷裁判と治癒禁止をものともせずに
外見は健康の回復、内側は変化
この対立と戦い の間、ブルーノ・グルーニングの活動は続行されました。1957年ホルスト・マン博士は、Das Neue Blatt 「ダス・ノイエ・ブラット」新聞の連載に「彼の言葉が病気を追い払う」という題名で次の記事を書きました。
「翌朝、私はハーメルンからダイスター河畔の小さな町、シュプリンゲに行きました。ここにもグルーニングのコミュニティーがありました。多くの人々が治癒されたこ事が、コミュニティーの発足となりました、そしてここでも私は、すでに先に訪れた、シュレースヴィクホールシュタイン、アウグスブルグ、ハーメルン、ウィーン、プロヒンゲンとその他の町で起こったのと同じ事を体験しました。人々は立ち上がり、私に自分たちの病気について話ました、彼らは自分たちのかかっていた医者の名前を言いました。彼らはグルーニングのおかげで起こった自分たちの治癒について話してくれました。そして彼らにはいつでも自分の発言を宣誓して証言する用意がありました。
「私の両脚は赤ん坊の時から股関節が脱臼していました。」とハノーバーの50歳になる女性、ジュリー・プローネルトは話しました。「成長してからは、ただ杖にすがってしか歩けませんでした。医者は私の痛みを和らげるだけでした。グルーニングさんの講演を聞いた時、私の体にすごい反応が起ったのを感じました。私の曲がっていた背中が再びまっすぐになり、歩けるようになりました。その後の再発はありません・・・」
「私には関節リューマチがあり、ひっきりなしに発疹と膿瘍に悩まされていました。グルーニングさんがそれから解放してくれました。」とハーメルンのヴィルヘルム・ガッベルトは言いました。
「私の肝臓の痛みは、モルヒネだけによってしか我慢する事はできませんでした。」とエーバストルフのクルト・セベリットは言いました。「私はブルーノ・グルーニングに感謝しています、彼が私を病気から解放してくれました。」
「私はひどい糖尿病でした。」とシュプリンゲのローベルト・ティースは言いました。「もっと命に危険だったのは心筋衰弱でした。両方の病気は今日私を苦しめることはありません、このことをブルーノ・グルーニングに感謝しています。’
この一連の報告は続きます。あらゆる年齢層の男性、女性、子供の報告でした。多くの病名が列挙されました、頭痛に始まり、神経通、坐骨神経痛、腎臓、胆嚢の病気、そして心臓障害、四肢の麻痺、不随にまで至りました。
しかし、私を深く感動させた事が他にありました。聴衆を前にして多くの人々が、グルーニングによって自分の内面的変化を体験したと正直に話してくれた事です。成功を追及する利己的な考えや態度が、内面的平和と落ち着きに、そしてみんなの事を考える様に変化したのでした。
自己の信頼心が治癒の成功を全ての人にもたらします
ホルスト・マン博士は続けます、「ブルーノ・グルーニングによって治癒されたと感じている人々との会話の中で、私の中にある疑問が強く起こりました。治癒は全ての人に起きたのだろうか – もっと大胆に言えば - どんな病気においても可能なのか?グルーニングから放出されるエネルギーの限界はどこまでなのだろうか?危険なことはなかったのだろうか?〔…〕
最後に彼を訪問した時、私はグルーニングにこの質問をしました。「私は誰の事も強制できないし、したくない。」と彼は答えました。「誰かが心を閉ざして、エネルギーを秩序に向けて働かそうと進んでする気持ちがなければ、私にも介入する事はできません。このような人々にはただ、治癒を邪魔している心の悪のかんぬきを爆破して、こじ開ける事を強く求めるだけです。」
私にはもう一つ質問がありました。「どの病気にも様々な危険がある。」と私は言いました。「仮に、何人もの医者から見離された重病人がまだかかっている医者に頼んで、あなたを呼んでもらうとします。あなたはその病人を助けることができますか?」
「はい」とグルーニングは言いました。一瞬のためらいもありませんでした。「病人が信じるなら、そして医者も自分のすることを信頼するなら治癒の成功が起こらない事はありません。お互いの信頼は、病人の内面に予期せぬ力を起こさせるでしょう。治癒はちょうど病人が絶望し切って、最後のワラをも掴む状態の時に起こることが多々あります。」
グルーニング同盟からの決別
長引く利害得失により損なわれた時間
狭義の官僚主義がグルーニングの罰金刑をただ傍観する
でした。彼は自分の行為に対してお金を受け取らなかったので、裁判に必要なお金が十分に無く、裁判の開始を機に、同盟の理事会は裁判にかかる費用は同盟が受け持つ事を決めていました。しかし罰金を支払うことに関しては、理事会で異論が出ました。そもそも同盟は2,000ドイツマルクを支払う義務があるかどうかを官僚的に検討した後、資金を調達するかどうかを決めようとしました。ですからブルーノ・グルーニングが必要とするお金は -もし同盟から出されるとしても- とても支払期日には間に合いませんでした。したがって同盟は何もせず、ブルーノ・グルーニングが罰金支払いの代わりに刑務所行きになることをただ傍観することになりそうでした。このことが原因で、公然たる対立が起こり、同盟の崩壊につながりました。
1957年10月、グルーニング同盟.運営陣とブルーノ・グルーニングの間に対立がありました。同盟の度量の狭い官僚主義は、ブルーノ・グルーニングを困らせました。対立の原因は、ブルーノ・グルーニングが近いうちに2,000ドイツマルクを罰金として支払わなくてはならないという裁判の判決 裁判の判決 でした。彼は自分の行為に対してお金を受け取らなかったので、裁判に必要なお金が十分に無く、裁判の開始を機に、同盟の理事会は裁判にかかる費用は同盟が 受け持つ事を決めていました。しかし罰金を支払うことに関しては、理事会で異論が出ました。そもそも同盟は2,000ドイツマルクを支払う義務があるかど うかを官僚的に検討した後、資金を調達するかどうかを決めようとしました。ですからブルーノ・グルーニングが必要とするお金は -もし同盟から出されると しても- とても支払期日には間に合いませんでした。したがって同盟は何もせず、ブルーノ・グルーニングが罰金支払いの代わりに刑務所行きになることをた だ傍観することになりそうでした。このことが原因で、公然たる対立が起こり、同盟の崩壊につながりました。
間違った友
ブルーノ・グルーニングは62ページに渡る彼の同盟の活動総決算 で、同盟が彼を不利にしたすべての点について、次のように訴えました。「私が今、昔、私の周りにいた人々(金儲け主義のメッケルブルグ、エンダリン、シュミットとフュルスマン)と、今、私の周りにいる人々を比較してみると、最後には同じ結果となります。今の最終結果においては昔と同じことが起きています。今、私の大切な側近であり、一番の友になりたかった人々は、かつての人々と変わらない人になってしまいました。昔は汚い職人が私を騙しましたが、今の友たちには行動を拒否し、事を黙って傍観できる人達です、私は裁判を通して、判決を通して、何の協力も得る事はありませんでした、車無しには会合に行くことができないのに車を調達する事も無く、新聞雑誌の煽動に対しても何の対策を講じる事もせず、ただ混乱を起こさせたままにしました、これは彼らが私の為にいてくれたのでは無いという事です、私がにb言を必要とした時に、彼らの学識とこの世における地位を持って、私を助ける事ができたであろうし、彼らはそれを行うべきでしたが、彼らはそれを行いませんでした、何のために私が一度限りにこの地上にあるのか、そこに考えが至る事はありませんでした。
この友たちの中の誰一人として、私を免罪にするために自分の力、地位を投入しようという勇気のある人はいませんでした。何もしませんでした。誰も私のために本当の弁護はしてくれませんでした、この裁判の戦いから、新聞雑誌に対して、協力や、壊れた車の事、汚い中傷から逃れるため、その他いろいろなことから逃れられるように、それにより私がこの地上にいる目的、人生に必要なエネルギーを人々に送り、人々を信仰の道へと導く、これを果たす事ができる様、自分をどうぞ使ってください、と申し出て、力を貸してくれる人は誰もいませんでした。
そのために私が平静を必要とし、常に世間の外的影響に妨げられる事無く、私に与えられた力を邪魔されずに発揮できる様、本当に防壁が必要であることを誰も考えませんでした、私の友でありたいと望んだ人々の中の誰一人として。これは恥じるべき事であり、私にとっては失望させられる事でした。
・金儲けをしようとする人々は、自分たちに利益をもたらそうとしました、彼らは悪い人間と認識されます。
・グの友たちは、あまりにも優柔不断、無関心、怠惰すぎます、私は悪意をもって言いたくありませんが。
結果としては同じことです。私は無罪になりませんでした。グの理事の友たちは、約束を守りませんでした。人は様々な対策をもって私にさるぐつわをかませました。」
団体活動の失敗
賢者は退くという事でしょう、団体として認可されることに失敗したグルーニング同盟は、間もなく解散しました。同盟に代わり、精会が登場しました。この会は1958年に設立され、ドイツはエーリッヒ・ペルツ、そしてオーストリアはアレクサンダー・ロイが代表者となりました。しかしこのブルーノ・グルーニングの人生の中で最後に設立されたこの団体も、グルーニングがこの団体に期待したことを果たす事はありませんでした。定款には彼の名前さえ挙げられていませんでした。
大裁判(1955-1957)
過失致死の訴訟と無罪判決、そして決定的な治癒禁止
1955年3月4日、検察は新たにブルーノ・グルーニングを起訴しました。またしても、彼は 民間治療師法 に違反したということで、罪をきせられました。新たな起訴で問題となったのは、ある件に関する過失致死罪でした。
グルーニングは、治癒の確約や医師治療の禁止などしていない、と意義を唱える
彼に起訴状が送られた後、グルーニングは友たちに訴えました、「私の愛する友たちよ!最近、多くの新聞、雑誌やラジオは、多かれ少なかれ、偏った見出しで私のことを報道しています、お知らせした様に、ミュンヘンの検察二課は、私に対して過失致死の訴状を準備しています。1949年に私が結核にかかった17歳の少女の治癒を確約し、療養所や医者へ行く事を妨害したというのです。それでこの少女の死が私に責任があるというのです。明快な理性でこの報道を読んだ、または聞いた人は、この報道が何を目的としているかご理解頂けたと思います。友たちの間に混乱を招き、私たちの努力や私の話す教えと更に詳しく取り組もうとしている全ての救いを求める人々を遠ざけようとしているのです。私とグルーニング同盟 、並びにみなさんの活動を阻止するべく、あらゆる手段がとられました。もちろん事実は言われている内容はと違います!友のみなさん、みなさんは既にご存知ですから、私が「治癒の約束」などしない事や、医師の治療を決して禁じていない事を今更お話しする必要はありません。
奇妙に遅れた捜査の詳細な論議
私は1952年に無罪となりました。すでに1949年の終わりから1950年にかけて「クーフ-ス事件」が起こり、裁判は1951-1952年でした、すべての書類が提出されていたにもかかわらず、当時検討されなかったということはおかしなことではありませんか!私の裁判を新たに開始するための調査が、1953年11月22日にムルナウで、グルーニング同盟 の設立が公表されたのと同時に始まったのは、奇妙ではありませんか!つまり、1954年1月から多くのコミュニティーリーダーと、友たち、ドイツの会員が警察に尋問されたり、監視されたりしました。」
減刑の為の証人は拒否、検察側の証人は歓迎
裁判の準備は2年以上も長引きました。ブルーノ・グルーニングの弁護団にとっては大変難しいものとなりました。無罪を証明するべき殆どの証人は証言することを拒否されたのに、検察側の証人は許可されました。検察側の証人の中には昔のグルーニングの協力者も二人いました。オイゲン・エンダリンとオットー・メッケルブルグです。特にメッケルブルグは - 最初の裁判ではグルーニングと同罪被告でした - ブルーノ・グルーニングに対して特に目立つ対立的態度に転じていました。彼はグルーニングを不利にすることに全てをかけていました。過失致死罪の起訴状の中にはメッケルブルグが決定的な役割を演じています。それは彼がグルーニングの 「マネージャー活動」 をしている中で起こった事件です。
操作されたルース・クーフスの抗争事件
1949年11月に貯蓄銀行公務員であったエミール・クーフース氏は、両肺を結核に侵されていた17才の娘、ルースを伴って、グルーニングの講演にやって来ました。グルーニングはすぐに、この娘は助からないとわかり、そのことを居合わせた医者に告げました。しかしメッケルブルグはグルーニングに、この件を引き受けるべきだとしつっこく攻め立てました。こうして講演後にブルーノ・グルーニングとルース・クーフースが個人的に会うことになりました。グルーニングは病人を励まし、父親に9日後に専門医に診てもらうように勧めました。こうすることにより彼は、もう医者とは関わりたくないと思っているこの少女が医者の管理のもとに入るようにしたかったのです。父親はそうします、と確約しました。
その後、交された手紙はメッケルブルグのところで処理され、ブルーノ・グルーニングまでは届きませんでした。1950年5月、初めて彼は再びルース・クーフースの話を聞きました。父親はその間、嘆願の手紙をグルーニングに出し、娘を訪問してくれるように頼んでいました。メッケルブルグはこの手紙を彼に渡さず、それどころか独断で - ブルーノには内緒で - クーフース氏と会う約束を取り決めていました。約束の日の直前、メッケルブルグはグルーニングに事の次第を告げ、一緒に来る事を強要しました。
後に、メッケルブルグはブルーノ・グルーニングが娘に治癒を約束したと主張しました。本当はメッケルブルグ自身が父親に、グルーニングに娘さんを治癒させます、と確約したのでした。メッケルブルグはこの貯蓄銀行の公務員である父親を金づるとみなし、父親から金を引き出す為に、グルーニングが必要でした。この訪問後間もなく、グルーニングはメッケルブルグと別れました。
グルーニングは、ルース・クーフースに医者の治療を禁じたということで激しく非難されました。しかしこの非難に対しては、被告側の証人が証明したように、彼は娘に対してすでに最初の出会いの時に、医者に行くように言っていました。1949年秋に放送されたラジオのスピーチで彼は人々に「最後まで医者の検査をうけるように」と呼びかけています。救いを求める人々に彼は、自分のかかっている医者を信頼するように、と常に忠告していました。
何回も痛みの伴う、しかも効果のない治療を受けていたルース・クーフースは、医者の治療を引き続き受けることを拒みました。1950年12月30日に彼女は病気が原因で亡くなりました。
医学鑑定により証明された見込みのない治癒
医師のオットー・フライホーファー博士は鑑定書の中にルース・クーフースの件に対する医師の見解を次のように解明しました、「冷静に観察すると、素人の誰の目にも、サッキンゲンの保険所が発表したように、「重病」であり、医師の診断からは「命にかかわる」「危険の迫っている」状態であり、人間の治療による治癒が絶望的であることは明らかでした。同様に、誠実でしかも公平にものを見る、最新の薬が自然の力に勝るとは確信していない医師ですら、ミュンヘンのリドティン教授の、「1949年11月5日以前には高い確率で治癒されたとは言えない」という鑑定書に同意しない訳にいきませんでした。私の考えでは、そもそもこの病人が1950年12月30日まで生き永らえたことさえ不思議であり、これはグルーニングの影響が確かな延命を可能にしたのだと思えます。私は私の書いた鑑定書をここに要約します、その理由は、「治癒の見通しがはっきりしていたのだとしたら」そして「もしグルーニング氏が彼女の前に現れなかったとしたら、病人、クーフースさんの生命が果たして延長されていたかどうかを確実に予言することも、検察側の言い分が正しいとも言えません。」
失敗した法廷判決
1957年6月末、その件について、ミュンヘンの陪審裁判所で公判が開かれました。過失致死罪について、ブルーノ・グルーニングは無罪となりました。民間治療師法に違反したということで2,000マルクの罰金を課せられました。
判決は一見ポジティブに見えましたが、彼にとっては受け入れがたいものでした。これは最終的に彼の行為を禁じられたも同然でした。グルーニングと違い、判決を過大にポジティブに評価した彼の弁護士の失策により、控訴したのは弁護士ではなく検察側でした。二度目の公判は1958年1月中旬、ミュンヘンで開かれました。
グルーニング同盟
団体による自由な活動への希望
治癒禁止 にもかかわらず、多くの人々につながりを持つため、ブルーノ・グルーニングは、1950年代の初め、コミュニティーを作りました。そこで彼は単に講演を行い、救いを求める人々が彼の知識を更に広める事ができる様に努力しました。
法的な保護と評判の理事会
1953年11月、ムルナウ・セーハウゼンに、グルーニング同盟 が本部組織として設立されました。同盟は協会として登録され、ブルーノ・グルーニングは彼の行為にたいして法的な保護が得られ、民間治療師法との戦いが永久に終わるはずでした。
グルーニング同盟 の代表者には、ツェッペリン男爵、マトシュカ伯爵、アニ・フレリン・エプナー・フォン エッシャンバッハ夫人(貴族)、建築評議委員、ヘルマン・リーディンガーと理事のコンスタンティン・ヴァイサーたちが名を連ね、最初は設立時の協力者として、ルドルフ・バッハマンがいましたが、もちろん同盟はこのバッハマンを間もなく除名しました。ブルーノ・グルーニングは生涯会長でした。
病人の健康を利用して利益を得た書記
同盟の書記係は、ハイデルベルグのジャーナリストで、編集担当者のエゴン・アーサー・シュミットでした。彼はすでにヘアフォルドで「奇跡のドクター」の側につき、「 という協会を設立していました。機能しているとは言え、ブルーノ・グルーニングの考えから外れていたので、会は間もなく解散しました。当時、グルーニングは友からの寄付金を横領したシュミットと決別しました。
1952年、シュミットは改めてグルーニングに近づき、自分の失敗を認めます、とグルーニングに言いました。彼は会の構築に協力させて欲しいと頼み込み、ブルーノ・グルーニングは彼を再び協力者にしました。こうしてシュミットには再度、彼にとって本当に病人を助けることが大事なのか、ただ彼の経済的利益を考えているのかを示すチャンスが与えられました。
1955年、ブルーノ・グルーニングは最終的にシュミットと別れました、彼の心情は変わっていなかったからです。彼は以前と変わらず、グルーニングの能力を利用して利益を得ようとしました。シュミットはグルーニングと別れた後に何度も裁判を起こそうとしました。彼は別れた後になってから、彼が自由意志で協力した仕事に対するお金を手に入れようとしたのです。
誰が誰の為に何の為に – グルーニングの活動の為の同盟か、同盟の為のブルーノの活動か?
時と共に、同盟は本当に心配されたような方向へと進ん行きました。彼らにとって、ブルーノ・グルーニングの言うことを聞くのが難しくなりました。彼らは、同盟は、ただ彼の名前がついているのではなく、彼の意向の元に設立されている事を忘れてしまった様でした。彼らにとってグルーニング同盟 は徐々に自分たちの目的のためのものとなりました。グルーニングの、困っている人々を助けるという、本来の目的は完全に忘れられてしまいました。グルーニングによって治癒が起こるのであって、同盟によって起こるのではない事を彼らは認めたくないようでした。
こうして、グルーニング同盟は、そのあるべき本来の目的とは反対の方向に発展してしまいました。この同盟に自分の名前を与えているこの男性にとって、同盟は彼に自由を与えるかわりに、どんどん彼を窮屈にさせる牢獄のようになってしまいました。
治癒禁止における最初の訴訟裁判(1951-1952)
グルーニングの行為は医学的な意味の医療行為なのか?
医学的な不法営業に対する起訴
1951-52年、ブルーノ・グルーニングは初めて許可無しに治療行為をしたということで裁判にかけられました。バイエルン州の内務省は1949年にはまだ、彼の行いを「自由意志による愛の行為」とみなし、医学的な意味においてのみ、医療行為と評価していました。
起訴は1939年に作成された民間治療師法にのっとり、それは今までの治療の自由を解除し、当時の国民社会主義の医師の手に治療は委ねられるべきであるとされていました。
民間治療師法に違反するかの賛否両論
ブルーノ・グルーニングは第一審、第二審、で無罪を言い渡されました。ミュンヘンの地方裁判所の裁判長は1952年3月の判決でその旨を告示しています。
「裁判所は、被告を一方的な鑑定により判決するのは間違いだとしました。何故ならグルーニングの行為に、民間治療師法が当てはまるかどうか、これは全くもって不確かです、彼の行為は今はまだ殆ど研究されていない分野に入るからです。」
控訴では無罪を証明されたものの、ブルーノ・グルーニングの行為は、明確に民間治療師法にのっとる治癒行為であるとされました。
「被告はこれで明らかに許可なしに、そして医者としてではなく、民間治療師法が適用される、病気の診断や、治癒、症状の軽減、人々の苦痛、又は、肉体の損傷などへの治療行為をした事となります。(・・・)
罪なき過ちは治癒禁止と同じ意味
判決は続きました、「被告への有罪判決を下すことはできませんでした、何故なら彼の治療方法を実際に見ると、それは法律を知らないで行った罪なき過ちであり、意図的にされたことではない事だからです。」
ブルーノ・グルーニングの行為が罪なき過ちであると判決が下り、無罪になったとは言え、司法上では治癒禁止が下されたのと同じことでした。この時からブルーノ・グルーニングは、彼の行為は民間治療師法にのっとるべき治療であり、法の許可なしには行為を禁止されたことを知らされました。彼の真の行いは、医療行為とは全く関係のないものだということは認められませんでした。
詐欺師に辛抱する
ブルーノ・グルーニングは全ての人に改心するチャンスを与えた
強制的な金銭の支払 - 協力者の真実の姿
代わる代わる、グルーニングに協力しようという名目で、多くの人々がグルーニングに近づきました。しかし殆どの人はただ、彼の能力を利用しての金儲けに関心があったのでした。彼はそのような人々にとって、抗し難い魅力がありました。彼らが、自分たちの目的を果たせず、グルーニングが彼らから離れてしまうと、彼らは何度も長引く裁判を起こし、グルーニングに金銭の支払いを強要しました。
例えば、1949年3月、フュルスマン夫人の場合はこうでした。息子の治癒に対する感謝の印として、ブルーノ・グルーニングを
ヘルフォルドの自宅にお客として泊めていました。 グルーニングを利用して、儲けることが出来ないとわかると彼を労働裁判所に訴えました。昔、彼女がグルーニングを無報酬で援助していた時の時間を労働時間に計算させ、のちになってその報酬を要求したのでした。ブルーノ・グルーニングは彼が死ぬまで彼女に毎月お金を支払わなければなりませんでした。これは特殊なケースではありません。このような形で、かつての協力者たちは彼らの真実の姿を現したのでした。
「この人達も、人間とは何かを示す為、取り上げる必要がありました」
しかし何故ブルーノ・グルーニングは、正しいとは思われない様な協力者を自分に近づけさせたのでしょうか?なぜ彼はこれら「商売人」を自分から遠ざける事をしなかったのでしょうか?1950年8月31日、ミュンヘンで行われた講演で、彼はこの質問に答えています。「今まで人々が、この小さな男の知識と能力を利用して、金儲けをしようと試みないことはありませんでした。彼らは金鉱を発見したと思いました。彼らの一部は金儲けできる可能性はありました、しかしありがたいことに、利益を得ることはできませんでした。この人々も人間とは何かを示す為に、取り上げる必要がありました、彼らは道で人が倒れていても見過ごす事ができ、彼らは病人がその後どうなったか、など聞く事もありません。目的のために手段を選ばない人間は死人をも無視して道を歩く事ができます。このような人々は、私の近くにいてもいいですか、とは決して尋ねませんでしたし、近づくためにはどんなことでも試みました。ここで、この男が何でも知っているなら、どうしてこのことがわからなかったのだろう、もしかしたら何も知らないのではないか、という疑問があちこちから出る事でしょう。私がこのことを知っているのか、どの程度知っていたかは、みなさんはだんだんにわかることでしょう。しかしこれは無くてはならなかったことなのです。この部分が今まで、みなさんの為に道を切り開くための活動に欠けていたものでした。」
・・・そして誰もが自分が誰であるかを悟ります
グレーテ・ホイスラー(1922-2007)は治癒された人であり、長きに亘り、ブルーノ・グルーニングの協力者でした。彼女は「ブルーノ・グルーニング交友会」を設立しました。彼女は著書Hier ist die Wahrheit an und um Bruno Gröning 「これがブルーノ・グルーニングに関する真実」に次のような出来事を書いています。ある日、私がグルーニングさんにお別れの挨拶をした際、「グルーニングさん、私は貴方が平穏に活動出来ますように、正しいとは思われない協力者から攻撃されませんようにと願っています。」と言うと、驚いたことに彼は「それは全く間違っている、こうでなくてはならないのだ!」と答えました。私は理解できませんでした、しかし彼は私に、何故自分が全てを我慢しなくてはならないのかを説明してくれました。彼は私に大きな秘密を明かしてくれました、「私は一人の人間の中に何があるかを知っています。しかし、もし私がその人間のことを「この人は嘘つきだ、泥棒だ。」と言うだけなら、誰も私を信じないでしょう。どうしたらいいでしょうか?私はこの人々を私に近づけさせます、そして善を教えます、回心するように仕向けます、それから初めて彼らに嘘をつく、だます、盗むことの出来るチャンスを与えます。そこで彼らが悪事を行えば、誰もがその人がどんな人間であるかを知るでしょう。それから私は彼らを私にもっと接近させ、私は臆病ではありませんから、そして戦います。」
新しい道と行き止まり
グルーニングをめぐり金儲けをする人々
自選のグルーニングのマネージャー、その独占権利
彼の妻が治癒されたことへの感謝から、ワンゲローゲ出身の実業家、オットー・メッケルベルクはブルーノ・グルーニングに協力し、診療所の設立に関する具体的な計画を提示しました。ブルーノ・グルーニングはその計画を了解し、メッケルブルグはグルーニングの「マネージャー」となりました。
12月末、二人はワンゲローゲに出かけました。ここでブルーノ・グルーニングは、メッケルブルグが準備した催しで話をし、数え切れない治癒が起こりました。グルーニングはメッケルブルグを完全に信頼していました。1950年1月8日にワンゲローゲで文書にされた契約には、グルーニングは、彼の将来の活動に関する全てをメッケルブルグの手に委ねていました。
「グルーニング氏はメッケルブルグ氏の計画を了承し、自分をこの計画の目的達成のために自由に使ってもらおうと思いました。メッケルブルグに協会設立と協会そのものに、グルーニングの将来の活動に必要であるいかなる協力も惜しまず、前記の目的の為、特別に彼の力の及ぶ限り、何でも行う事を確約しました。
この責任をグルーニング氏は、メッケルブルグ個人に対してと、上記の目的のために設立中の協会に対しても取る事を承諾しました。グルーニング氏はそれ以外に、この協力は他の誰にも、そして他の人が主催する活動にも行わず、この協会の枠内、そしてメッケルブルグとの合意の上でのみ実行すると確約しました。」
1月中に、メッケルブルグはVerein zur Erforschung Gröning'scher Heilmethoden (グルーニングの治癒方法を研究する協会)を設立しました。彼自身が会の代表者となり、1,000ドイツマルクの月給を取りました。ブルーノ・グルーニングはお金をもらいませんでした。このことはメッケルブルグが約束を守らない事を示しています。彼はグルーニングをただ、お金の収入源とみなし、又嘲笑的にグルーニングのことを「馬小屋の一番よい馬だ」と言いました。メッケルブルグにとって病人たちのことはどうでもよいことでした。彼は契約書をもってグルーニングを自分にしばりつけ、「奇跡のヒーラー」はメッケルブルグの思い通りに行動しなくてはなりませんでした。
1950年6月、やっとグルーニングはメッケルブルグと別れることができました、これに対してメッケルブルグは「私はグルーニングをやっつけてやる、彼の体中の骨を折ってやる。」と復讐を誓いました。
理学療法士による講演依頼
それからグルーニングは数ヶ月、ミュンヘンの理学療法士、オイゲン・エンダリンと一緒に活動しました。このエンダリンはトラーバーホーフで病気を治癒されたので、ブルーノ・グルーニングに彼の医院で講演をするように頼みました。しかし、このエンダリンも商売人の馬脚を現しました。彼にとって、人を助けることは目的ではなく、「グルーニングの現象」を利用してお金儲けがしたかったのでした。その年の暮れ、グルーニングは彼と別れました。それから再び、1952-53年にも共に活動しましたが、同じ理由から、これも失敗に終わりました。
出世第一主義のヒーラー
その後、グルーニングは、グレーフェルフィングにある小さなホテル、ヴァイカスハイムで講演をしました。ジャーナリストのクルト・トランプラー博士は自宅にグルーニングを泊め、集会の手配を行いました。彼は既にグルーニングの事を1949年の秋から知っていました。当時、彼はミュンヘンの新聞社の記者として、トラーバーホーフに赴き、予期せずに自分の脚が治癒されるという体験をしました。感謝の気持ちから彼は、Die große Umkehr 「大回心」という本を書き、グルーニングのために役所関係の折衝に尽力しました。エンダリンの場合と同様、グレーフェルフィングの講演会には沢山の人々がやって来ました。信じ難い治癒が起こりました。しかし、トランプラーとの関係は破綻しました。彼はある日、自分はもう十分にグルーニングから教わったとして、グルーニングから離れ、ヒーラーとして独立したのです。
トラーバーホーフ
ローゼンハイムへ押し寄せる群衆
3万人にも及ぶ救済を求める人々が毎日、1949年9月、グルーニングの元へと集まりました。
ハイデルベルグでの調査 終了後、1949年8月、ブルーノ・グルーニングは南ドイツに移りました。グルーニングは自分をめぐって起きる騒ぎから逃れたかったので、ミュンヘン近郊のローゼンハイムの個人の農場へ引きこもリました。当初はグルーニングの滞在を秘密に出来ましたが、最初の新聞がバイエルン地方に彼がやって来ていることを報道した後はまさに群集が押しかけることになってしまいました。
ローゼンハイムのトラーバーホーフに毎日3万人に上る人々が押し寄せました。新聞、ラジオ、週刊ニュース等が報道しました。「グルーニング」とタイトルを付けた映画さえ製作され、グルーニングをめぐって起こる出来事が記録として残されました。
聖書の様な光景
新聞Zeitungsblitz 「ツァイトゥングスブリッツ」は9月第2週の特別号として報道しました、「その間に一万人以上の人々が集まりました。彼らは焼け付くような暑さの中、グルーニングがバルコニーに現れ、大衆に話しかけ、治癒力の流れを送る、その瞬間を既に何時間も待ち続けていました。人々は存分にグルーニングの治癒力の流れを享受しようと、近くにひしめき合って立っていました。車椅子や肘掛け椅子、その周りに立っている人たちには、すでにその力の効果が現れ始めていました。半分目の見えなかった人が再び見え始め、今まで障害者だった人が再び立ち上がり、体の不自由な人たちは自分たちの強ばった四肢を動かしました。何百人もの人々が病んでいた部分に、強い痛み、鈍い痛み、疼痛、むずむずする、表現し難い体の軽さを感じたこと、また、突然消えてしまった頭痛などについて報告しました。
この聖書の様な光景は、トラーバーホーフだけで起こったのではありませんでした。グルーニングは、彼が現れるいたるところで、嵐のような速さで数え切れない病人たちに取り囲まれました。アニー・ヘーネは彼女の著書、Geistheiler heute 「スピリチュアルヒーラーの今」の中にグルーニングに関する状況を書いています。「グルーニングが自分の到着を告げるだけで、もう既に巡礼が始まる。ジャーナリスト、ルドルフ・シュピッツが1949年9月にミュンヘンのグルーニングのところに行った時に見た光景はその典型的なものだった。
「19時、何千人もの人が、ゾンネ通りに立っていた。22時半、群集はまだそこに立っていた。5年間の対戦で多くのことを私は体験しましたが、ブルーノ・グルーニングの前に座り、悲惨と苦しみの人々のぞっとするような行進を体験したこの4時間ほど衝撃を受けたことはありませんでした。てんかん患者、盲人、杖をついた麻痺患者たちはグルーニングのところに押し寄せた。母親たちは自分の麻痺している子供たちをグルーニングに差し出した。失神者が続出し、悲鳴が上がり、助けを求める請願者の声、願い、願望、深いため息があった。」
国家機関は好意的である事を表明
ブルーノ・グルーニングが当時いた、ローゼンハイム近郊のトラーバーホーフで、ミュンヘンのもう一人のジャーナリスト、クルト・トランプラー博士は担架に乗った病人たち、麻薬患者などの大群衆を観察していました。トランプラー博士は、新聞Münchner Allgemeine 「ミュンヒェナー・アルゲマイネ」のレポーターとして来ていました。- 彼は自分が見聞きしたことだけを記録する冷静なジャーナリストでした。「今、バルコニーからグルーニングではない声が聞こえます。窓際へと人々が急いでいます。ミュンヘン警察署長、ピッツェル氏が群集に向かって話しをしています。彼は自分を長年苦しめていた坐骨神経痛の痛みが、グルーニングがいる間に和らいだと報告しています。確かにピッツェルは大げさにものをイメージするような男ではないが、自分自身に起こったことをはっきり証言できる男であった。彼は今、公然とグルーニングを支持している。またCSU党国会議員、ハーゲン氏も続いて同様の声明を発表した。」
バイエルンの政治機関もブルーノ・グルーニングに対して好意的であった。日刊新聞Münchner Merkur 「ミュンヒェナー・メルクーア」は1949年9月7日付けで、「好感のもてるグルーニング」というタイトルで報道しました。「バイエルン州首相、エアハルト博士は月曜日の報道機関会議で、ブルーノ・グルーニングの様な「特殊な出来事」は、法律の条項により挫折させるべきではない。と言明しました。彼の見解によれば、バイエルンではグルーニングの活動許可への大きな障害はないということでした。
バイエルンの内務省は編集会議の後、ブルーノ・グルーニングの治癒行為に関する一時的再調査の結果、彼の治癒行為は自主的な愛の行為と見なすことができ、この範囲内では民間治療師法に基づく許可を必要としない。と公表しました。
治癒に関する医学的鑑定書への中傷の後
トラーバーホーフでは、グルーニングをめぐる大騒動が起こっていました。グルーニングの能力を利用 して利益を得たい、多くの商売人が現れました。彼らはグルーニングの名声を傷つけ、これが政治機関から彼を引き離す結果となってしまいました。事態が耐え難いものになると、グルーニングはバイエルンの山の中に引きこもりました。グルーニングは療養所設立に関するいくつかの提案をじっくりと調べたかったのです。彼の目的は、救いを求める人々が正道に乗って治癒を獲得できる施設の設立でした、そして医師たちが、ハイデルベルグの実例に沿って、事前、事後の検査を行い、生じた治癒を文書で証明することでした。
「グルーニングの現象」と科学
鑑定結果を約束されたハイデルベルグでの医学的なテスト
この ヘルフォルド時代 、雑誌、
Revue 「レビュー」の医学分野専門の人々はグルーニングの治癒成功例の調査を開始しました。教授ならびに博士であるH.G.フィッシャー氏は特派員たちとともにヘアフォルドへ出かけました。現地で教授は治癒された人々に話しを聞き、グルーニングの"方法"が実際に成功したことに驚きをもって認めざるを得ませんでした。その結果、雑誌Revue 「レビュー」は、「グルーニングの現象」の科学的解明のために貢献することを決めました。ハイデルベルグ大学附属病院で「奇跡のドクター」の「治癒方法」が調査されることになりました。
ブルーノ・グルーニングはフィッシャー教授の提案を受け入れました、なぜならフィッシャー教授は事が上手くいくように専門家として前向きの評価を彼に約束したからでした。グルーニングは自由な活動への道が見つけられると期待しました。
医者たちの目の前で多くの治癒 - ブルーノ・グルーニングはペテン師ではない
7月27日、調査は始始まりました。グルーニングの能力を証明するための被験者は、8万件以上の請願の手紙をグルーニングに宛てて書いた病人の中から選ばれた人々でした。それにハイデルベルグのルドルフ・クレール病院の数人の患者が追加されました。全員が事前に診察を受け、正確な診断が下されました。その後、全員がグルーニングの処へ通されました。グルーニングは彼らに「自分の方法」を使いました。その場には常に数人の医者が同席しました。医者たちはどのように病気が自然発生的に消えたかの証人になりました。病院で行われた事後の検査で治癒が確認されました。ベヒテレフ・メンデル反射のような不治の病気でさえも治癒していました。
雑誌Revue 「レビュー」に掲載された事前鑑定の中で医師のフィッシャー教授は、ブルーノ・グルーニングはペテン師などではなく、生来才能に恵まれた、魂を癒す医者である、と明らかに断言した。これをもってフィッシャー博士は自分の観点から、「グルーニングの現象」を解明しようとしたがグルーニングにとっては正当なことではなかった。
商売人を拒んだグルーニング
最終的な鑑定書が全結果の分析後に作成されることになりました。
ブルーノ・グルーニングに対してはこれからの彼の活動への道を最終的に自由にすることが約束されました。その間にフィッシャー教授やフォン・ヴァイゼッカー氏(これらの後援者たちにより計画、企画された)はブルーノ・グルーニングに次のような提案をしました。教授らはグルーニングが医者と一緒に活動出来るような治療センターの設立を望みました。しかしながら運営や患者の選択は自分たちの権限として確保しました。
この件に関してブルーノ・グルーニングは、「F教授より要求された財政的条件などは私にとっては受け入れがたい義務付けでした。当然これに関して、またこの事業に融資したいという人々とも多くの話し合いが行われました。私はF教授からの提案に同意できず、受け入れませんでした。なぜならば、第一に、私は1ペニヒも自由になる身ではないので、彼の要求する財政的義務を負うことはできません。第二に、全ての計画が金儲けに繋がるとは考えてもみませんでした。以上の理由から、私にとっては全てが不可能な要求でした。その上、私は自分の使命として与えられた事だけを行いたかったのです。救いを求める人々を救う事、そのために医者や心理療法師たちに私自身を自由に使ってもらう事が目的で、この全てにおいて金儲けをする気はありませんでした。」
鑑定書の約束不履行と法律との強まる衝突
ブルーノ・グルーニングの拒絶的態度は教授たちからグルーニングへの関心を失わせました。約束された鑑定書は一度として作成されることはありませんでした。グルーニングに自由な活動を可能にさせる代わりに彼らはグルーニングの活動の道に新たなる石を置いてしまいました。検査の間、彼の「治癒の方法」は「治療」、「患者」などの表現を用いて証明されたので、医学療法としてみなされてしまいました。このことから民間治療師法と対立が起こることは、あらかじめ予想されました。
1949 - 世間の注目の的
ヘルフォルドにおけるブルーノ・グルーニングの活動
何千もの病人と救済を求める人々がグルーニングを取り囲みました
9歳のディーター・フュルスマンはかなり長い間ベッドに寝たきりででした。進行性筋萎縮症に苦しめられ、どの医者も大学の教授たちも彼を助けることは出来ませんでした。ブルーノ・グルーニングがこの少年のことを引き受けると、少年は再び歩くことが出来るようになりました。技術者である父親のフュルスマン氏は息子の思いがけない治癒に大変感銘を受け、客であるグルーニングに、自分の家にとどまってくれる様に頼みました。ヒュルスマン氏はこの奇跡を起こす男によって助けられるであろう、多くの病人たちをもっと呼びたいと思いました。
ブルーノ・グルーニングはその申し出を受け入れました。日ごとに救いを求める人々が増えてゆきました。そしてグルーニングをめぐって起こる不思議な出来事を知る人々が次第に多くなってゆきました。しかし、それは長くは続きませんでした。グルーノ・グルーニングの名前が話題になり、新聞は、「奇跡のドクター」についての記事を掲載しました。英国でもブルーノ・グルーニングは話題の人となりました。何万もの人々がウィルヘルム広場にやって来てフュルスマン家を取り囲みました。
日刊新聞Münchner Merkur (ミュンヘナー・メルクーア)のマンフレッド・リュトゲンホルストは1949年6月24日付けで書いています、『私が午前10時半にヘアフォルドに到着した時、ヴィルヘルムスプラッツの小さな二階建ての家の前には、既に千人位の人々が立っていた。それは何とも言い難い悲惨な光景であった。数え切れない車椅子やその他、家族に運ばれて来た肢体不自由な人、目の見えない人、耳や口が不自由な人、脳や体に麻痺のある子供たちを連れている母親たち、小柄な老婦人や若者たちがひしめきあって呻いていた。100台近い車、トラック、バスが広場に停まっていた。全ての人々が遠方からやって来たのだった。
麻痺していた、胃潰瘍だった、目が見えなかった人々が、「グルーニングさんが私を見つめ、そして私は再び完全に健康になりました。」
マンフレッド・リュトゲンホルストが続けます、「あなたは治癒されると信じていますか?」と私が病人に尋ねると、彼らは首をたてに振った。ある人が、「あなたは昨日ここに来るべきだった。」と言った。「グルーニングさんはラインランド(ドイツ、ライン川西部地方)のフィールセンにいました。そしてここ中庭には五人の麻痺した人たちが立っていましたが、元気になって家に帰って行きました。遠隔治癒-この中庭があの人たちを健康にしました。」他の病人たちもこれについて証言した。
私は群集の中に分け入り彼らの驚くべき話を速記していった。これらの話は一冊の本にするのに十分であった。タバコに火を点けた時、そばにいた若い男が言った、「一本売ってください!」その男は軍服を着ていてロシアからの帰還兵のようだった。私がタバコをあげると、彼はタバコに火を点けながら有頂天になって言った。「見て!僕はまた自分で何でもできる!」と言いながら、指と一緒に右腕右足を動かした。「君もグルーニングによって治癒されたのですね?」と尋ねた。「はい、ロシアで自分は右半身が麻痺してしまった。グルーニングさんが自分に視線を向けたら、こうして再び自分はすっかり健康になりました、まだこのことを理解できません。」その若い男は幸せそうに自分の手足を振った。
私は、白髪の40歳位の女性の周りに集まっていたグループの方へ向かった。「もちろん」という言葉に続いてその女性が「グルーニングさんを通して治癒された。」といっているのを聞いた。「私にはひどい胃潰瘍があって、だんだん痩せてきて痛みでもう眠ることが出来なかったのです。12人で連れ立ってグルーニングさんの所にいました。{…}グルーニングさんは私を見ました。その時、私にはその胃潰瘍が地面の上に石のように落ちたように思えました。その時から、痛みがなくなりましたし、どんどん太り始めました。撮ってもらったレントゲン写真は疑い無く、胃潰瘍がなくなったことを証明していました。私はこのことを医者の調査委員会に任せましたが、医者たちは言うまでも無くびっくりしていました。」さらにその女性は続けた。「でも、それだけでは終わらなかったのです。先週この広場のここに目の見えない男性が立っていました。その人は数日間ずっと待っていました。私はたびたびここに来たので、彼が目についたのです。お気の毒に思って食事に誘ったのですが、「結構です。」と断られました。「グルーニングさんがやって来るその瞬間を逃したくない。」と言っていました。そして私が彼にロールパンを持って行って、私が誰かにあなたのことを駅まで連れて行ってもらえるようにしてあげる、と言うと、彼は「私は誰の助けも必要ありません、なぜなら自分一人で駅まで行けるようになります。」という答えが返ってきました。それから私は自分のこの目で彼が歩くのを見たのです。グルーニングさんがやってきました。そうしたら、その若い男性は叫び始めたのです、「また見えるようになった!」と。実際彼の目から包帯が消えていました。彼は私がどんなハンドバッグを持っているかを描写しました。更に彼は言いました、「あそこに車が走っている、そしてこれはナンバープレートだ。」彼は一人で駅へ行く道を見つけました。周りにいた全ての人たちが喜びに涙しました。
役所と医師会による治癒禁止
世の政治機関、特に保険機構もまた、この出来事に関心を寄せるまでにそう長くはかかりませんでした。調査委員会が発足し、ブルーノ・グルーニングは治癒禁止の命令を受けました。数人の有力な医師たちは、グルーニングの公然の敵でした。彼らはグルーニングの行いを阻止するために出来る限りの方法を用い、また彼の治癒能力を科学的に調査させることを要求しました。しかし、その治癒禁止令の裏にどんな意図が隠されていたのかは、その調査に参加していた医師の次の発言で明らかになっています、「グルーニング氏は彼が望んでいることを証明できるが、治癒活動の許可は得られないであろう。」「グルーニングに関わることは医師たちの、プロとしての名誉を傷つける事になる。」6月末、グルーニングは最終的にヘアフォルドを去らなければなりませんでした。治癒の許可を得るためのあらゆる努力は失敗に終わりました。