Presseartikel von damals
医学の革命か?
医学の革命か?
「レビュー」1949年8月14日 クラールング、運命を左右する質問
1949年5-6月、治る見込みの無いと言われた何千人もの絶望している病人たちを治癒したという、ヘアフォルドの奇跡を起こす男、ブルーノ・グルー ニングにとって、彼の活動を続ける事は、北ドイツの医者や政府機関の狭量により不可能となりました。1949年5月3日、ブルーノ・グルーニングは彼 の活動を続ける事を禁じられました。6月29日以降、グルーニングは世間から身を隠してしまいました。しかし、ブルーノ・グルーニングは消えてしまったので も、彼の素晴らしい治癒力への疑問が解明されないままでいるのでもありません。何故なら「レビュー」がグルーニングに、批判的ではあるが偏見のない医者達の前で、彼の力の効力を立証できる道を開いたからです。既に「レビュー」は、グルーニングが現代の科学者たちに、「私は不治の病を治す」事を証明でき る機会を彼に与えました。「レビュー」は今日、攻撃不可能な150件にわたる実験結果の報告をスタートさせます。みなさん、心理学者であり、教授かつ医学博士であるフィッシャー氏の科学的指導管理の下に書かれた我社の特派員、ボンガルツとラウクスの記事をご一読下さい。
「レビュー」の計画
「レビュー」は純粋な報道の域を遥かに超えたテーマについての公表をスタートさせます。その焦点は、ヘアフォルドやその他の町々で不治と言われ 苦しんでいる何千という病人たちを素晴らしく、かつ不思議な方法によって治癒、または快方に向かわせた、素朴な、そしてあっという間に有名になった男、ブ ルーノ・グルーニングです。戦後ブルーノ・グルーニングほど人々を感動させた政治家も財界人も、芸術家もいません。他の国々、英国やアメリカにさえも彼の 名声は、称賛と、そして不信と傲慢な拒絶の間に揺れ動きながら、新聞雑誌のセンセーショナルな記事として伝わりました。冷笑的な軽蔑の眼は、煽動的な統制 不可能な噂や、矛盾している話を餌として大きくなりました。それは殆どどこでも、必要とされる真剣さ、責任感、公平に見ること、そしてブルーノ・グ ルーニングを通して一夜にして世間に知れ渡った、医学の専門的考察分野では考えられない出来事への問題意識に欠けていました。
「レビュー」の医学専門分野の協力者たちは他との関連から、既に長い間、殆どの病気の原因は精神的なものではないかという問いと、そしてドイツ では殆ど顧みられていない、しかしドイツ国外では行われている、この件に関する研究の進展状況に取り組んでいました。グルーニングの事例は奇跡の医者、とい う個人に関係しているのではなく、心的、精神的な事に関する重要な問いに関係しているのです。即ち、心が原因の病気の患者を精神治療する際、この病気の原因を十分に考慮すべきであるという事です。グルーニングは精神治療の分野におけるひとつの現象でしょう。ですから北ドイツでグ ルーニングに関するキャンペーンが展開され、日によっては6,000人もの人々が彼のもとに集まり、次第に事態が混沌とし始めた時、「レビュー」はこれを紙面報道しようという異例の決定を下したのです。
無数のグルーニング信奉者と、少数ながらも影響力の大きい敵対者との間の対立は、耐え難い事態となってしまいました。ヘルフォルドの医師委員会と役所は、グルーニングに治癒禁止の命令を下しました。とは言え、ヘルフォルド、ハンブルグ、その他多くの町では、何千人という病人たちが相変わらず、この奇跡 を起こす男性の助けを待ちわびていました。担当部局は最終的に、ブルーノ・グルーニングの現象に対して途方に暮れてしまい、この現象自体、不幸な結果を招く のではなかろうかと懸念していました。グルーニングは敵の力と信奉者の力の摩擦の間で、疲労困憊してしまうのではないだろうか?素朴で知識に乏しく、 しかし本物の使命と、人々を助けようという誠実な気持ちに満ちている人間グルーニングは、資本である彼の治癒力を利用して、利益を計って強引に彼に近づく人々が、敵対者に多くの攻撃の隙を与えてしまった「支持者」によって没落してしまうのではなかろうか?又、USAでは今日、すべての大きな病院は真面 目な研究心から、グルーニングの能力を医学的に検査する為、彼にそのチャンスを与えるであろうと思われますが、ドイツの医学や学問研究所にはその様な意志があるのだろうか?無益な討論の後、6月末には、グルーニングが疲労困憊してしまうのではないかと心配されました。彼には素晴らしい、治癒力と、精神に 影響を与える事のできる能力があると認定されるのか、又は彼にあると推定される能力は思い違いであり、彼の行いは見世物であると認定されるのだろうか、 という何百万人の病人たちの問いに対する答えは得られません。
この時点で「レビュー」は特派員スタッフである、ヘルムート・ラウクスと、ハインツ・ボンガルツ、そして科学者で、マールブルグの心理学者、医学博士のH.G・フィッシャー教授を北ドイツに派遣する事にしました。スタッフの任務は、薄れだしたグルーニングの足跡を調査する事でした。スタッフ は、グルーニングの手がけた多くの治癒の成功例、不成功例を正確に調査確認する事にしました。この予備調査でポジティヴな結果が出た場合、「レビュー」のスタッフはグルーニングの周囲との繋がり、および、グルーニングの個人像を描く事にしました。調査の結果によっては、スタッフは、グルーニング を不利にすると思われる取り巻き連中から彼を離し、また彼から信奉者と医者、そして官僚主義当該官庁との間の息のつまるような大混乱を取り払おという任 務と計画がありました。グルーニングの同意の上で、グルーニングには、人の知らない、人里離れた場所に隠れてもらう事になりました。同時に「レビュー」 のスタッフは、予備調査で有利な結果が出た場合、有名なドイツの大学病院と共同作業の協力を得る為の準備に当たりました。病院はグルーニン グに、学者による協力の輪の中で彼の能力を立証する為のチャンスが与えられ、成功した場合、グルーニングには彼の活動を続行できる道が開かれる はずでした。不成功の場合は論争の余地の無い明白な報道で、悪い結果をはっきりと世間に公表する事にしました。これが「レビュー」の計画でした。
この計画の実現は、1949年6月28日に始まりました。この実現に関しては困難と、異常な出来事と驚きが伴いましたが、世間に知られる事無く計画は成功しました、世間にとって、グルーニングは1949年5月29日、23時45分をもって、ハンブルグから消えてしまいました。今日、「レビュー」は特派員と指導的立場にある医師による、事のいきさつと、雑誌「レビュー」の協力により可能となった、この時代における最大の驚嘆すべき医学的実験についての詳しい報告をスタートいたします。
ブルーノ・グルーニング:精神の医者という現象
精神科精神科医フィッシャー教授の科学的指導の下に書かれたヘルムート・ラウクスとハインツ・ボンガルツの報告
ブルーノ・グルーニングの軌跡
医師による見解
我々はグルーニングがハンブルグから突然跡形も無く消えてしまった6月29日、フランクフルトを出発しました。我々ジャーナリストは、もちろん好奇心一杯で したが、フィッシャー教授は完全に好奇心を隠すことは出来なかったものの大変冷静でした。教授は、体系的に、グルーニングの件に着手し、あせらず良心 的に判定しようと決意していました。フィッシャー教授との共同作業は初日から素晴らしいものでした。彼は普通の医学大学を卒業していました。彼は医者とし て病気の診断を下す事や、その病気が悪化したか、治癒したかを判断する事ができました。一方で彼は、心理学者でもあり、精神分析と精神療法の助けを借り て治療を行っています。グルーニングの方法は、本当に精神療法に効果があると証明されれば、この分野に入るものでした。グルーニングが、まだ知られていない他の精神療法の力を持っている場合は別です。
我々は6月29日の夜、ビーレフェルドに到着しました。偶然にもフィッシャー教授の昔の知り合いの一人が、先ずベーテルにある精神病院の院長である、ショル シュ教授に会わせてくれました。ショルシュ教授はグルーニングに対する治癒禁止の決定に賛成した医師委員会の中で一役買った人物でした。我々新聞社の人間とは会おうとしませんでした、彼はただフィッシャー教授を迎え入れただけで、フィッシャー教授には彼が受けたグルーニングの印象を語りました。「彼 はきわめて単純な人間だ、何より彼にはカリスマ性がない。」この言葉を知らないみなさんに付け加えますと、科学者たちにとって、この言葉は、彼らの使命の自覚を意味ます。ショルシュ教授は、グルーニングがへルフォルドや他の土地でも話した彼の背負っている宗教的使命については、全くのお芝居だと述べました。グルーニングは反対に利己的で高慢である。シュルシュ教授は我々に、彼の言葉が真実である証拠として同じ事を証言している筆相学者の鑑定書を見せまし た。フィッシャー教授は彼の判断を一応承諾しました。ついでながらショルシュ教授が意識的に偏見にとらわれているような印象は受けませんでした。彼には関心が無いだけの様に見受けられました。彼はまるぽちゃの愛想の良い人で、できるならブルーノ・グルーニングの件についてはもう聞きたくない様子でした。恐らく彼は精神的に興奮したくなかったし、これ以上面倒な事に関わりたくなかったのでしょう。彼は我々に、彼の意見を鵜呑みにするのではなく、我々自身でこの事件を追及する様に、という考えでした。
ビーレフェルドの市立病院の教授であるヴォルフ博士はもう少し心の広いところを我々に示しました。彼の意見では、グルーニングの件は無条件に 調査しなければいけない、という我々と完全に同じ意見でした、彼は同様に、病院でグルーニングの能力を証明させる事を提案しました。グルーニン グがこの提案を拒否した理由は何だったのでしょうか?医師達が彼を特別懐疑的に迫害している事を悪く取って、彼が他の医師達の前で自分の能力を示す事を拒絶したのでしょうか?
何故、グルーニングはこの様に彼の方法を観察され、鑑定されるのを避けたのだろうか、と私たちも当然疑問を持ちました。グルーニングにはヴォル フ教授の、公平に観察しようという態度を疑問視する理由があったのでしょうか?フィッシャー教授が数週間後に、ビーレフェルドの市立病院の医師達と計画を実施する様、グルーニングにすすめたところ、その医師達にもある意図がある事、つまり、グルーニングに誰も助ける事の出来ない患者をグ ルーニングにさえも出来ない様な患者を、表面的には好意的に彼に押し付けて敗北させようとしている事をフィッシャー教授は残念ながら知らされなければなりませんで した。ですからフィッシャー教授は、グルーニングの方法をビーレフェルドの医師達に鑑定させる事を断念しました。
さらに、デトモルトの公務員医師である、ドイエス博士は、グルーニングに対して、グルーニングは自分に治癒能力がある事を彼が望むだけ全部証明できる であろう、それでも彼はその活動を阻止されるであろう!と言いました。これについてフィッシャー教授はヘルフォルドからドイエス博士に電話で質問しましたが、ドイエス教授は自分の発言に隠し立てはしませんでした。グルーニングはドイエス教授に悪い印象を与えた様でした。ドイエス博士は医者として実に高慢 であり、自分の取った態度に並外れた自信を持っていました。
グルーニングはこうして医師達の考え方に対して信頼を失わざるを得ませんでした、ですからグルーニングが病院で実験するという提案を受け入れなかったからと いって、彼を悪く言う事はできません。もともと素朴な人間の目覚めた本能が、彼を待ち構えている公平でない意図を感じ取ったのでした。
精神に起因している慢性病の洪水
6月30日、我々は最初に、ノルトライン・ヴェストファーレン州から調査を始め、グルーニングが手がけて、治癒されたと言われる患者の調査はハンブルグ地方にまで及びました。これは「言うは易く、行うは難し」でした。
グルーニングが手がけた病人たちは、それぞれが自分たちの郷里に帰って行きました。誰も彼らの住所や氏名を正確には書き止めていませんでした。グルーニングは文字通り、一種の巡回治療師として人々を治療しました、そして人々の話や新聞雑誌、人々の話や噂以外、彼の信奉者側からも、彼の言動についての正確な資料は何ひとつ ありませんでした。もし、我々よりも前から既にグルーニングの真の成功例の確かな概観をつかもうと努力していた男性とビーレフェルドで偶然に出会わなかっ たとしたら、多分大変困難な事態を乗り越えなくてはならなかった事でしょう。
この男性は、この地域の健康保険組合長のランツェンラートという人物で、聡明で、客観的でしかも先見の明がありました。彼は、グルーニングをよく知ってい るという、彼がハンブルグに発った後でも活躍した、ヘアフォルドのフュルスマン家に滞在していた何人かの人々、グルーニングを信奉する、彼を利用する商売人 - この人々について当時まだ区別できませんでしたが - いわゆる「信奉者」の中に入り込むことに成功しました。多数の病気に影響を与え治癒するグルーニングの能力と同様に、グルーニングの控えめな態度に彼は事実を確信していました。しかしランツェンラートはこのいわゆる「信奉者」がグルー ニングの美点を悪い方向に向けてしまうのではないかと懸念していました。ランツェンラート自身、我々を初めは疑っていました。しかしここでもまたフィッ シャー教授が我々のグループに門戸を開いてくれ、我々を助ける様、彼の知っている事例を我々に話してくれる様にと頼んでくれました、そしてこの事を正確に調査する事で、グルーニングの現象の重大さを引き出す事ができました。ところで、ランツェンラ-トを、グルーニングに関係する人々に導いた動機は大変興味深いものです。というのは、痛みのひどい彼の腎臓病が彼をグルーニングへと導いたという事です。それ以来彼には - この間2ヶ月が過ぎました - 痛みがありません。しかし同時に健康保険の仕事をしているという運命がグルーニングと人々との関係を調べる動機となりました。彼は我々に、慢性の治り難い病気が多いので、ドイツの健康保険組合は経済的破綻状態に瀕していると語りました。彼は勿論この事をもって、現代の状況を注意深く観察し ている精神療法医にとっては周知の事実である、病気は精神に起因しているという事を証明しました。衝撃を与えた第二次世界大戦は本当に病気の洪水をもたらしました、これらの大部分は、精神的な原因ではあるものの、数え切れない胃の病やリューマチ、はっきりしたノイローゼ、又は麻痺などでした。心理学者は これらの病気が精神的な影響による病気である、という概念を作りました。通貨改革の後、統計的に病気の件数が更に増加傾向にある事がわかります。この数は戦前にはこれほどの規模では無く、殆どが単に臓器に起因するものと見なされていました。ランツェンラートは、グルーニングのもとに治癒の方法を発見し、この方法により保険組合の負担を軽くできるのではないかと真剣に思いました。ランツェンラートは多数の治療と治癒を調査しました。彼は 20件程の事例を紹介してくれました。これらについて我々は、可能な限り入念に分析調査し、我々にとっての重大な疑問を解明しようと、それぞれの病人の担当医との協議が一週間にわたって行われました。グルーニングは治癒できるのであろうか?
7月8日、我々は20件の調査結果を全部読んでみました。20件の事例のうち7件は、かなり興味深く、どこか秘密めいたものでしたが、グルーニングに関する是非のはっきりした結果は出ませんでした。我々は先ずこの7件で手こずっていたので、調査の三日目には、絶望的な気持ちになってしまいそうでした。少なくとも我々素人は。
住宅局
それはビーレフェルドのクリューグリッヒの事例でした。一介のサラリーマンであるクリューグリッヒは戦争中に腎臓に貫通銃創を受けました。傷ついた腎臓は完 全には機能していませんでした。戦後、もう片方の腎臓にひどい炎症が起こり、医者が手術を必要とすると考える程に症状が悪化していました。レン トゲン写真とその他の所見が我々の手元にあります。聖霊降臨祭の少し前、クリューグリッヒはランツェンラートを介した手紙で、グルーニングに頼みました。グルーニングは先ず「遠隔治療」を行い、クリューグリッヒに、これから毎日自分の体に何が起こるか観察するように言いました。クリューグリッヒは、 自分の腎臓が機能するようになり、尿の色がどんどん濃くなった事、そしてその後どんどん症状が軽くなったのを確認しました。
治療に当たった医者も、快方に向かっている事実を確認しました。グルーニングはその後、個人的にクリューグリッヒを訪問し、彼の良好な状態は続きました。ク リューグリッヒは床を離れ、散歩もできる様になりました。しかし我々が彼を訪問し、フィッシャー教授が診察した途端に再び彼の容態は悪くなってしまいま した。フィッシャー教授にはすぐ、クリューグリッヒが病気を理由に住宅局から更に一部屋を特別にもらっている事を知りました。彼が「治癒」された ニュースがすぐに広まった事で、住宅局は彼に、そうであれば、部屋は没収すると通告したのです。同日、彼の容態は再び悪化しました。 それは仮病ではなく、本当に悪化していました。この悪化は疑い無く、精神的なもの、つまり部屋を失ってしまうという不安と、病気であれば部屋 がもらえるという思考によるものである事が明らかでした。この状態で、彼が治癒されたと言う事はもちろん意味の無い事です。医学ではこの様な場合、グルーニングはただ、病人を無気力状態から目覚めさせ、それによって一時的に病人の抵抗力を強めた、と説明するでしょう。これからも、病気の精神的治療と体の抵抗力の直接の関係を医学は認めたのです。しかし治癒が可能である、という命題を却下するのも当然でした。もちろん、後にグルーニングが、クリューグリッヒに再び影響を与えて目的の治癒を果たせたかどうかは謎に包まれています。
彼女は自分の店の金庫の上に座っている
同じくビーレフェルドにおける二番目の事例はW夫人です。彼女は未亡人で自転車屋の主人でした。彼女の店の奥にある台所の肘掛け椅子から、店と家族に指示を出していました。15年来、彼女には証明できる歩行困難があり、水腫のために足が腫れ上がっていました。心臓と腎臓の機能は正常でした。しかし慢性の関節 リューマチの徴候がありました。グルーニングは彼女の前に30分間座ってから、間もなく彼女が快方に向かうでしょうと予言しました。それ以来、彼女は再び中庭を歩 くことが出来、快適な毎日を送っていました。教授は、ほんの軽い水腫がまだ残っているだけであると診断しました。彼女を治療した女医の診断結果も同様で、グ ルーニングがW夫人を訪問して以来、はっきりと腫れが引いた事を確認しました。とは言え、最近は再びまた症状が出てきた様子でした。ここでもやはり、精神的な 励ましと元気付けが一時的な回復をもたらしたのか、この事は我々にとって十分に納得できる内容ではありません、しかし、またしても精神状態と病気が密接に関係している事を示してはいます。ただしここでもまた、人が、グルーニングの治療を常時受ける事により快方、又は完治するの だろうと思っている場合は別ですが。興味深かったのは、W夫人は長年店の金庫管理をしていて、麻痺により歩行困難であるというコンプレックスから、常に金庫を監視していなくてはいけないという脅迫観念に襲われていた事が確認された事です。おそらく、グルーニングはこの脅迫観念も一時的に除去したのでしょう。 一時的とは言え、注目に価する成果であり、普通の精神療法専門医は半時間どころか、一日、あるいは何週間も治癒に時間を費やした事でしょう。しかし、この成果も、グルーニングの中に秘められているものを探り出す為、我々が病院に大実験を依頼するには十分な材料ではありませんでした。
グルーニングが彼女に銀の玉を与えた・・・
これはビーレフェルドにおける最後の事例でした。二人の人物にかかわる件でした。一人は少女で、下級の役人かサラリーマンの娘で、母親はこの娘に常にプレッシャーを与えていました。二人目は工場のオーナー男性で、どうやら彼の財産をねらっている親戚一同から監視されている様子でした。この男性と少女は恋愛関係になり、家族との激しい争いに巻き込まれてしまいました。娘の方は、「これは到底上手くいくはずがない」と関係を止めさせたい母親から常に叱責されていま した。男性と娘は二人とも勇気を失ってしまい、ついに別れてしまいました。娘は稀なほど重い心臓神経症にかかり寝たきりとなってしまいました。同 じ頃、男性は事故に遭い、傷が治っても寝たきりでした。彼の心は恋人の元へ行く事にありました。この気持ちを抑えている事が次第に病気 へと繋がっていき、ベッドに縛られてしまいました。グルーニングはこの件を手がけました。彼が娘を最初に訪ねた時から娘の健康状態は以前よりずっと良くなり、ベッドから離れる事ができました。彼女はグルーニングを訪ね、彼に助けてもらいたい他の病人の名前、つまり工場のオーナーの名前を挙げましたが、 男性について詳しくは話しませんでした。しかしグルーニングには本当の関係がはっきりとわかっていました。彼はポケットからタバコの箱を取り出 し、中の銀紙で作った玉を、男性の手の中に渡すまでは彼女の手の中に持っている様に指示して、それを彼女に与えました。そして彼は健康になるでしょうという事でした。この娘はこの玉を自分の手の中に36時間持っていました。
そうこうしているうちに、この男性の耳に、あちこちに飛び交うグルーニングの成功の噂を通して、グルーニングがシュヴェルドの娘に与えた指示の噂も入って きました。好奇心が彼をベッドから起き上がらせ、娘の所へ行かせました。こうして引き裂かれていた仲は再び元に戻り、二人とも健康になったと感じていました。二人はまた度々会うようになったのか、というフィッシャー教授の質問に、娘は「はい、残念ながら」と答えました。不幸を招いた本来の争いは、母親や親戚間の緊張関係だったのです - それゆえ彼女は「残念ながら」と言ったのです - その緊張関係は無くなってはおらず、遅かれ早かれ、昔の状態が再び 戻るのは明らかでした。
この事例も何か腑に落ちないものでした、しかしながら、グルーニングはここでも精神的な原因で引き起こされた病気を驚くほどの短時間で取り除きまし た。彼は注目すべき感情移入できる能力を持ち、病気が何と関連しているかを読み取り、玉を与えるというトリックを使いました。この様な方法を用 いる事は、腕利きの精神療法医でも恥じる必要はありません。グルーニングはもちろん、引き金となったコンプレックスが彼女に無くなったかどうかを聞き落としていました。シュヴェルドの事例は、グルーニングに対する好感をフィッシャー教授に抱かせ始めました。他に何も特殊な事をグルーニングに見出せ なくても、人は彼が精神療法に関する驚くべき生来の能力を持っている事を否定する事はできませんでした。
動かなくなったオートバイ
全く不思議なのはヴェーマイヤーの事例でした。ヴェーマイヤーはヘルフォルドの運送屋でした。熱心に仕事をする、たくましい、健全な神経の持ち主で絶対に 嘘をつくような人間ではありません。彼も、はっきりと原因のわからない慢性病でミュンスターの病院に入院している妻を助けてもらいたくて、グルーニングを訪ねたのでした。グルーニングは彼に、「あなたの奥さんは、ある決まった日に家に帰りたいと言うでしょう、しかし、それより前に彼女を訪ねて家に連れ戻してはいけません。」彼はグルーニングの言葉に従わず、オートバイに乗って妻の居るミュンスターに向かいました。その際、不思議な事が起こりました。こ れは彼にとって全く合点のいかない出来事でした。途中でオートバイが動かなくなってしまったのです。ビーレフェルドで彼はオートバイを修理工場にもってい きました。そこの工員は、このオートバイを上から下まで点検したのですが、どこも壊れている箇所は見つかりませんでした。この状態で動かないはずはあり ませんでした。エンジンの点火ランプを変え、ありとあらゆる事をしました。工員は何故オートバイが走らないのか理解できませんでした。彼は途方に暮れ て、ヴェーマイヤー氏に一番いいのは家に戻る事だ、と言いました。ヴェーマイヤーは家に戻る事にしました。彼がヘルフォルドに戻ろうとした途端、まるで何事もなかった様にオートバイは走り出したのです。彼は大喜びで行く先を変えようとしました、すると即座にオートバイは動かなってしまいました。オートバイは、ミュンスターに向かって走ろうとはしませんでした。
この、まるで幽霊の仕業のような出来事に感銘したヴェーマイヤーは、しばらくしてから汽車でミュンスターに行きました。その時、妻は突然、家に帰りたいと言い出しました。彼女は以前よりずっと良くなったと感じ、担当の医者も、もう治療は終わりました。と言いました。
熱い流れ
類い稀な最初の成功
我々が調査を始めてから5日目、初めて実に大きな驚きを体験しました。そしてこの日から、最終的には大げさではなく、センセーションと言える様な驚くべき出来事が次々と起こりました。
我々はハンブルグに出向きました、ランツェンラートが大変感銘したという事例がそこにあったからです。この事例は、医者からもきちんとと観察されているもの でした。それはハンブルグに自動車修理工場を持っているメント氏の娘の件でした。娘は脊椎小児麻痺を克服したのですが、麻痺の症状はまだ両脚に残って いました。
ここでは、この治癒の起こる以前に、正確で細心の注意が払われた、明確な診断があったという前置きがあります。グルーニングは子供を手がける時には、いつも 静かに子供の前に座り、優しくその子が何を感じるかを尋ねました、必要とあれば、時には子供を撫でました。そして母親に、これから先、毎日この子が感じる事を正確に記録する様、指示しました。これが入念に記録されました。フィッシャー教授は、この子供が腰に向かって引っ張られるような痛みを脚に感じたという記録を読みました。痛みは強くなり、麻痺している脚がどんどん温かくなり、血液循環が良くなりました。子供は、以前は出来なかった事が出来る様になりました。フィッシャー教授は子供の脚を正確に診察し、驚くほど強く、血液が脚中を循環しているのを確認しました。この全ての事象はフィッシャー教授に、今まで脊椎小児麻痺に利用して成功した例のなかった「自己治癒力を高めるトレーニング」の方法を思い起こさせました。「自己治癒力を高めるトレーニン グ」は昔、イエナ大学の講師で心理学のI.H.シュルツ教授により開発され、ドイツで人々に教えられました。このシュルツ方式は、基本的には古くからある有名な、そしてヨーロッパ人にとっては神秘的なインドのヨガを現代医学に用いているのと何ら変わりはありません。ヨガがシュルツ教授により - 催眠術と混同されてはいけないのですが - 精神に影響を与える事により、患者の決まった体の部分の血液循環が促進される他の方法に変化したのです。この方法 を用いて全ての場合に成功があったわけではありません。何よりも、「トレーニング」と名づけられている様に、何週間、時には何ヶ月もの時を必要とします。ここ、メントの場合、グルーニングは、実に稀に見る最初の成功を獲得しました。たとえ教育を受けた心理療法医がこの件と取り組んで成功したとしても、グ ルーニングがそれに30分しか必要としなかった所を、何週間も必要とした事でしょう。フィッシャー教授はその上、ハンブルグのブルグハルド教授ともこの件について長時間協議しました、そして二人とも、このグルーニングの治癒に大変感銘し、フィッシャー教授は初めて、グルーニングは驚異的な心理療法の力を、もし かしたら彼独自の他の力を放出しているか、あるいは何か他のものを持っていて、それは大病院における実験で調査されなければならないものであるという見解を表明しました。同時に脊椎小児麻痺の治癒に影響したものと、その後の状態を長期間に亘り、逐次観察しなければいけない、とも言いました。
彼を助ける事ができる医者はいなかった
翌日、新たに強い印象を受ける驚くべき出来事が起こりました。ランツェンラートは我々をグルーニングの手がけた他の人、バード・エインハウゼンのカルゲスマイヤー氏のところに連れて行きました。カルゲスマイヤーは47歳で、2歳の時から頭痛があり、この頭痛は時が経つにつれて三叉神経痛となりまし た。これは顔面神経の痛みで、数ある痛みの中でも最もひどい痛みの一つとされています。この痛みのひどさは、人を自殺に追い込む事もあります。この病は 普通の医者では殆どどうする事もできません。薬では痛みを十分に緩和できません。どうにもならない場合、神経をアルコール注射で封じるか、切断する方法が取られます。この手術は難しく、成功率の高い手術ではありません。カルゲスマイヤーは度々手術を受けました。最後にはミュンスター の病院の徹底的な手術で、扁桃腺と副鼻腔を除去されました。その炎症部分が顔面痛の原因ではないかと推定されたからです。手術をしても神経痛は無くなりませんでした。もちろん前述した炎症が、神経痛の原因になる事はあり得ます。しかしこの場合、扁桃腺と副鼻腔の除去手術後も顔面神経痛はありました。似たような ひどい痛みを、時々切断手術をされた人が、もう無いはずの腕や脚の付け根に感じる事もあります。グルーニングはカルゲスマイヤーに取り組みました。グ ルーニングは彼に、頭をしっかり両手で押さえている様に言いました。
その後、カルゲスマイヤーは治癒力の熱い流れを顔中に感じました。痛みは数日ありましたが、それ以降、痛みは日毎に和らいでいきました。彼には既に4週間もの間、痛みがありません。
ここでも明らかに、血液循環を操縦する特別な能力が成功を導いた様です。もしかしたら、他の要因も功を奏したのかもしれません。しかし、他の要因は 我々にとっては今のところ重要ではありません。今まではたった数件の、心理療法による三叉神経痛の治癒が知られています。この際も、成功するまでに何週間も何ヶ月間も要しました。グルーニングはそれを実に短い時間で成し遂げました - 今までには例の無い成果です。
ティーター・フュルスマンの有名な事例
翌日我々は再びヘルフォルドにいました。そして、ランツェンラートはフィッシャーに、ディーター・フュルスマンの事例も、もっと検証する事を提案しまし た。技師のフュルスマンの9歳になる息子で、この息子が治癒された事により、グルーニングは世間に知られる様になりました。我々はグルー ニングが有名になり、つい最近まで滞在していたという家に初めて足を踏み入れました。ディーター・フュルスマンは一度として正式に歩く事を学びませんで した。しかし人は彼の本当の病状を知りませんでした。長い間、彼はギプス包帯をされていました。最後に彼はミュンスターの病院で進行性筋ジストロフィー、 つまり筋萎縮であると診断されました。
続く約1年間のベーテルでの入院中、そこの医者の一人は「息子さんをここに入院させたままでも良いし、家に連れ帰っても良いです。誰も彼を助ける事はできません。」と言いました。子供は最後には座る事もできなくなり、氷の様に冷たい脚をしていました。温かくした毛布、湯たんぽ、そして電気毛布なども、永続的な体の冷えと感覚麻痺を取り除く事はできませんでした。この状態の中、グルーニングはまたとない治療を手がけたのです。少年はすぐに背中 に激しく燃えるようなものを感じ、そして脚全体が突然温かくなりました。この感覚が少年を、フラフラしてはいたものの、再び歩ける様にさせました。
ディーター・フュルスマンの事例は最も激しい討論の対象となり、そしてそれは両方の側の根拠のない誇張された意見の争いでした。それはきっと治癒がテーマではなかったのかもしれません。しかも、症状はグルーニングの治療によっても何一つ変わらなかったという主張もありました、意地の悪い歪曲です。 フィッシャー教授の正確な診察後の見解は、実際は神経性進行型の筋萎縮で、つまり脊椎から筋肉に広がる神経の変性で、成長過程に影響を与えま す。変性の起点となるのは、恐らく角質細胞でしょう。そこに大脳からくる神経線維が合流します。この線維が筋肉に通じるこの神経と直接触れる事無く、脳から送られる刺激の伝達、又は切り替えが行われます。変性した神経が異常に活気づけられ、この活気が脚の筋肉に伝わった事は否定できない、という事でした。我々を驚かせたのは、グルーニングが恐ろしいほど現実に近い解剖学的な診断を下した事です。
不気味な事の始まり
フィッシャー教授がディーター・フュルスマンを診察した後、グルーニングに関して判断するに際し、ある事が欠けている事に気づきました。 我々はグルーニングが当時ここで仕事をしたとは知らずに居間に通されました。フィッシャー教授はくたびれて、あちこちに置かれている安楽椅子の一つに座りまし た。殆ど同時に彼の顔色が真っ青になりました。彼はあえいでいましたが、すぐに元に戻りました。それから、まるでどこから来たのか分からない、得体の知れ ない力が彼に触れたかの様に、彼はうつろな目で我々を見ました。彼は我々に、自分が座ろうとした途端に激しい痛みを右の腎臓の辺りに感じ、同時に胸が波 打ち呼吸困難になった、と言いました。彼の右の腎臓は昔、何度も炎症を起こしていたのです。腎臓は彼の体の中で最も弱い臓器でした。我々が奇妙 な現象について頭をひねっていると、そこにランツェンラートが入って来て、「教授が座っている椅子はグルーニングが病人を手がけた時に座っていた椅子です。」 と言いました。
グルーニングは常に、この椅子に特別な力を残せると主張していました。教授は何かそれを感じたのでしょうか?「もちろんそうだ!」と彼はちょっと息 のつまるような静けさの中で言いました。しかし、彼はもう他の事に考えがいっている様子でした。突然、彼はランツェンラートに一緒に来る様促し、庭へ出て行きました。それは我々がヘルフォルドに着いた時と同様に、病人たちが忍耐強く、そして絶望的にグルーニングを待っている庭でした。フィッシャー 教授は病人たちの中から四肢の麻痺している人を探していましたが、動かない脚で東屋に横たわっている可哀そうな少女を見つけました。彼はランツェンラートの助けを借りて、この少女を居間に運び込み、謎に満ちているその椅子に座らせました。それから彼は心理療法家として、その少女をいつもの通りに治療し始めました。 彼はすぐに彼女の麻痺の原因を見つけました。
この少女はダルムシュタット出身の21歳のアンニ・シュヴェドラーで、1944年の秋にこの町の空襲を体験していました。アンニは母親とその他 20名くらいの人々と一緒にビール醸造所の防空壕で生き埋めになりました。母親も含めた全員が、人間一人が抜け出られるような隙間から逃げ出す事ができ ました。しかしどういう訳か、少女の体は壁の隙間に挟まれて動けなくなってしまいました。家は炎々と燃え上がりました。少女の髪の毛に火がつきました。最 後の瞬間に防空壕の番人によって外に引っ張り出され、火のついた洋服に水がかけられました。未だに彼女はこの時の事が記憶によみがえり、話をしている間中、驚愕に満ちた形相をしていました。彼女は助けられた後、上手く歩けないことに気が付きました。数日後にはつまずき始めました。歩き方がおぼつかなくなり、とうとう歩けなくなってしまいました。あらゆる医者の療法も成功しませんでした。そして今、この少女はフィッシャー教授がショックを受けた、この不 思議な椅子に座っていました。
教授は少女が話し終わるまでの間に、いろいろ話を組み合わせ次のことを推測しました。もしグルーニングが彼の座った椅子に秘密の治癒力を残したのであれば、この力は彼がいなくても病人に効くに違いないと思い、教授は簡単に、グルーニング が多くの麻痺した病人をこの部屋で助けた事を、少女に話して聞かせました。その他に、グルーニングの写真を彼女に見せたりもしました。そして彼は、 心から力のこもった声で突然少女に命令しました、「立ちなさい。」彼は、グルーニングだったら似たような事をすると思ったのでした。少女の顔は突然輝き出し、勢いよく椅子から体を起こし、立ち上がれた事に彼女自身驚き、あっけにとられ、初めは一歩も歩けないほどでした。教授はもう一度命令しました、「歩きなさい!」傍に立っていたランツェンラートは軽く少女の手を支えました、それから少女はまだよろよろした足取りで喜びの涙にくれながら、部屋を横切って、驚嘆している母親の座っている椅子まで歩いていきました。しかしここで、アンニ・シュヴェンドラーは倒れてしまいました。二度目が試みられまし た。この2度目の試みでも、フィッシャーは患者にグルーニングの写真を見せると、今まで麻痺していた脚の血行が強くなり、赤みがさし、温かくなったことが 確認されました。少女はまた起き上がりました。教授の命令は、何度も立ったり座ったりする事でした。彼女は立ち上がるのがだんだん上手になりました。最後にこの少女は、部屋から出て中庭を通って向かい側の通りまで歩く事ができ、そこから車でヘルフォルドの親戚の所へ連れて行かれました。
我々全員は息も出来ない緊張感でこの試みを見守っていました。その日の夜、我々は、「レビュー」に、北ドイツの滞在を延長する必要がある旨を報告しました。グルーニングが一つの現象である事は、疑う余地の無い事で、この現象は、計画された病院での実験ではっきりさせなくてはならない事でした。我々は来る日に、グルーニングと連絡を取り、彼が自分の能力を証明できる様、ハイデルベルグの大学病院の医師達と準備をし、実験を行ないたかったので す
カルゲスマイヤーは、グルーニングが彼に尋ねもしなかったのに、顔面痛があり、それが2歳の時から彼を苦しめている事を言い当てたと話しました。 我々は彼が感謝の念から、事を誇張して言っている病人だと思っていました。しかしディーター・フュルスマンにおけるグルーニングの診断は、証明された報告書として提示されており、グルーニングは脊髄の神経の断裂だと言い、その際、病気である角質細胞のある場所を示しました。ここで少年は上記した、燃える ようなものを感じ、その後に奇妙な動きをしました、これをグルーニングは体の再生だと言い、ゆっくりと電流が「流れ込ん」”時の電球の明かりの揺らめ きを例に取りました。この説明は極めて単純でした。しかしながら、正に事実に即していて、我々にとって感銘深いものでした。
1949年3月から始まったブルーノ・グルーニングに関する出来事
この出来事による混乱騒ぎは大変大きく、部外者になんとか理解してもらい、混乱を抑えるには相当の苦労が必要でした。
1949年3月18日
グルーニングの運命の星が突然ヘルフォルドで光り始めました。ヘルフォルドの技師、フュルスマンの息子、ディーターにあった病気、筋萎縮の本当かどうかわ からない、不確かな治癒が起こったとういニュースが世間に知れ渡りました。更に引き続き起こった治癒の報告がつけ加えられました。噂やニュースが風にのっ て広まりました。大勢の病人が、グルーニングの滞在しているヘルフォルドのヴィルヘルム広場7番地のフュルスマン家の前に集まって来ました。
1949年4月4日
ヘルフォルドにおけるグルーニングの公開治癒行為の始まり。大反響。グルーニングはヘルフォルドの奇跡を起こす男となる。一部の人々から救世主のように崇められれば、崇められるほど、彼は自分の力は神の力そのものであると強調しました。
1949年4月27日
病人の大群が押し寄せた事で、役所は、特に保険機関が介入し始めました。グルーニングとフュルスマンはヘアフォルドの保健所の所長、衛生技官のシー ベルト博士のところに招かれました。シーベルトは、今まではグルーニングの活動を黙って見ていたが、あまりに大勢の病人なので、公共の保健衛生制度の責任者として介入しなければならないと説明しました。彼は下手な、挑発するようなやり方で、グルーニングの個人的な事柄を確認しようとしました。グルーニングは、シー ベルトのやり方を否定し、代わりにシーベルト自身で、グルーニングが活動する場所に来て、彼の方法と成果を確信する様に要請しましたが、シーベ ルトはこれを、自分は笑い者になりたくないという理由で拒否しました。
それから数日後
3回に亘るフュルスマン、シーベルト博士、ヘルフォルドの刑法監督官、アウアーの会談で - グルーニングの大信奉者であると同時に不器用なフュルスマンは、彼らにグルーニングの成果を自分たちで確信する事を強要しました。シーベルトは拒否的態度、アウアーは客観的態度でした。
1949年4月30日
治癒を求める人々がどんどん増える事により、役所との問題は大きくなり、グルーニングはフュルスマン家で記者会見の様な事を行いました。新聞雑誌はこの間、センセーショナルに報道し、事例に関する多くの誤報やでっち上げを我が物として公表しました。この記者会見にはヘルフォルドの統括局長のマイス ターと教区監督のクンストも登場しました。医者との交渉も、新聞雑誌記者の扱いにも慣れておらず、他の出席者ともしっかりした関係の無いグルーニングは、少し 気後れしている様子でした。大量の病人が押しかけた為に秩序が保てなくなった事への懸念、医師の不信の念、又はあらわな敵対の念、そして冷静さに 欠けた報道に関する事などが問題点でした。
1949年5月3日
統括局長マイスターはグルーニングをフュルスマン家に訪問しました。彼は自分で、グルーニングを待っている人々の中から一人の麻痺状態の女性を引っ張り出 し、グルーニングの所に連れて来ました。グルーニングはこの女性に明白な治癒をもたらしました、マイスターは大変感激して彼に別れを告げました。
5月3日の午後
それにもかかわらず、統括局長はその日の午後にグルーニングのこれから先、いかなる治癒行為も禁止する発令を出しました。その禁止令への抗告期間は3週間でした。役所、グルーニング、そして待ちわびている群集 - この群集の中にはこの何週間かの間に多数の注目すべき治癒が起こっていました - の間の争いは、どんどん大きくなりました。
1949年5月13日
治癒禁止令発令の10日後、表面的には第三帝国時代の民間治療師法を支持するという事で、医師委員会と称する人々がフュルスマン家に現れました。この委員会は町の代表者から成り立っていました。それはビーレフェルドのいくつかの病院、ヴォルフ・M.博士、ベーテルの療養所の所長、ショルシュ博士、そして ビーレフェルドの衛生技官ライナー博士でした、その他の参加者は統括局長マイスターと教区監督クンストでした。クンストとヴォルフは公平な態度を保 とうと努力していました。完全に拒絶的態度を取ったのは、ライナー博士でした。彼は「みなさん!ここでみなさんが見るものはは、医科学において何一つ目 新しいものではありません。我々はこのような病気を、同じ結果がでるように治療できます。私がここに来たからには、奇跡を見せてもらいたいものです。」と言いました。途方に暮れている役所と共にグルーニングの反対者である医師委員会は、大衆を動かすブルーノ・グルーニングの現象に対して、だんだん強固な態度を取る様になりました。それでもグルーニングは6月28日までにイギリス国境にいたるまでのドイツ国内の大学病院、ビーレフェルドの市立病院、 又はベーテルの病院の医長と協定の上、医学的に検査可能な病気に対するグルーニングの能力を立証する事を提案しました。
それから数日後
治癒禁止になったのだから、グルーニングを待つ事は無駄である、という口頭、および文書による通達にもかかわらず、治癒を求める人々はフュルスマン家の前で じっと頑張り通していました。ただブルーニングの遠隔治療が、この待ち続けている人々にも効くという事で、確認し難い数々の治癒が起こりました。
1949年5月20日
グルーニングは彼の治癒方法をいくつかの私立病院で立証する事を表明しました、しかしヴォルフ教授の所へ行く途中、医師達の態度に対する、本能的な疑念が彼の気持ちを変えてしまいました。その時、グルーニングに治癒されたクレメ氏が一役買って出ました。クレメはグルーニングに、ヘルフォルドの役所との戦いは止めて、そのかわりに彼が良く知っているデトモルドの理事長のドラケと話し合う事を薦めました。
1949年5月23日
ドラケとの会見は、不運な条件のもとに行われました。グルーニングの側近の中に現れ、自分を大学の講師と称しているエゴン・アルトア・シュミットにせかされて、グルーニングはドラケを訪問する前夜、ドラケの健康状態を遠隔診断しました。グルーニングの遠隔診断は特別な事で、簡単に医学用語を用いる 訳にはいきません。(レヴューの記事でみなさんもご存知のかと思います。)グルーニングの能力を確信しているシュミットは、ドラケにこの遠隔診断書を見せました。ドラケはこの中にいくつかの間違いを発見しました。グルーニングのはっきりした敵対者、そしてこの委員会に参加したデトモルドの公務医、ドイエ ス博士が優位になりました。彼はグルーニングにはっきりと、グルーニングが何をしようと、何を立証しようと治癒禁止は解けないであろうと言いました。(ドイエス博士の発言は彼自身により、「レビュー」の協力者である教授のフィッシャー博士に伝えられました)ドイエスの言葉には事の進展に不幸をもたらすよ うな翳りがありました。グルーニングの医者に対する本能的な不信感は確固たるものとなってしまいました、そして彼にとっても医者とまともに集う事は不可能 となりました。ドイエス博士はグルーニングに、特別の場合には法律条項を犯す事無く、民間治療室を開いて治療を実施できる特別許可を得る事ができる、民 間治療師法の特別条項を見せる事もしませんでした。
1949年5月24日
グルーニングとヴェールマン助役との話し合いは、統括局長のマイスターが休暇中なのでヴェールマンが代理として行ったのでした。その時にヴェールマンは 8名の証人の意見内容を次の様にまとめました。ヴィルヘルム広場7番地の家の前に何千人もの人が待っていようと、彼には関心が無い。病気を治癒する事は二次的な事であり、彼が関心のある事は魂が救われ、罪が許される事である。全ての肉体の苦痛が治癒される事は魂が治癒される事に比べ れば、小さな事である。グルーニングも「罪の許し」を手がける事が出来るのかという問いに、グルーニングが返答をしなかった事で、彼にとって、グルーニングとの話し合いは大変不満足なものとなりました。
1949年6月7日
グルーニングの所へ新たに医師委員会の訪問客がありました、今回は、ヴェールマンと衛生技官シーベルト博士の部下達でした。5時間に亘る話し合 い。全ての治癒に関する行為の禁止は変更しない。苦情申し立ての期限は、7月28日までに延期。グルーニングには再度、病院において彼の治療方法を立証するという提案がありました。しかしグルーニングの中に深く根を下ろした医師に対する不信感が、それには至らせませんでした。(「レビュー」から依頼さ れた医学博士のフィッシャー教授は後に、グルーニングの不信に理由がないとは言えないと述べています。)
1949年6月18-19日
ウィルヘルム広場でグルーニングを待ち続ける何千人もの病人をなだめる為、ヴェールマンは治癒禁止を一時的に緩和するより仕方がありませんでした。
1949年6月20日
ヴェールマン家と市庁舎の前で、治癒を待ち望んでいる人々のデモが行われました。警察は手の施しようがありませんでした。
1949年6月21日
治癒禁止が再度緩和されました。
1949年6月24日
統括局長マイスターが休暇から戻り、治癒禁止を承認しました。混乱状態はますます悪化してゆきました。
1949年6月25日
グルーニングに喘息を治癒してもらった、豪商ウェストファルの招待により、グルーニングはハンブルグに行く事になりました。彼はそこで彼の活動を続けられる事を望みました。しかし、それはハンブルグでも不可能でした。
1949年6月29日
グルーニングは行く先の当ても無く、ハンブルグを立ち去りました。彼にはフュルスマン夫妻が付き添っていました。一般大衆と警察は彼の足跡を失ってしまいました。
説明:
医学博士のフィッシャー教授がグルーニングと出会う以前に、グルーニングにより手がけられた病人たち
ビーレフェルドの腎臓病のクリューグリッヒ氏は、常に手術への恐怖感と共に生きていました。グルーニングによって治癒された後、「レビュー」から依頼された フィッシャー教授が、クリューグリッヒと面会した所、彼は大変素晴らしい健康状態でした。これが我々の報告です。
ハンブルグのメント一家の小さな娘についてフィッシャー教授は、グルーニングの力を医学にも役立てる必要性を証明しました。グルーニングは脊椎小児麻痺に精神療法を利用して成功させました。
ヴェーマイヤー婦人。フィッシャー教授が彼女を訪問し、彼女に入院中の状態を聞いた時、グルーニングの遠隔治療と彼女の夫の語った体験に大変感銘を受けました。(上述記事参照)
シュヴェルト嬢は、フィッシャー教授に、記事に書かれている様なグルーニングとの出会い、どの様にして彼が彼女を銀紙玉の助けを、彼女が使って愛する男性へと連れ戻したのか、そしてどの様にして、二人を治癒したのかを語りました。
W婦人、彼女は1946年に死去した夫の自転車屋を継いでいました。フィッシャー教授は、グルーニングが彼女を手がける以前、長引く、治癒の見込みのない彼女を治療していた女医と話をしました。
バード・オインハウゼンの経営者、カルゲスマイヤー氏は、手術せずに三叉神経が原因の苦しい痛みが無くなりました。フィッシャー教授はグルーニングが手がけた後、健康になった彼に会いました。
E夫人のベッドの前に、モルタース博士が座っていました、彼はこの患者をグルーニングが手がける前に治療していました。この事例の場合も「レビュー」は、大学病院の医師達に病院での検査の必要性を確信させました。これについては次号の「レビュー」で報告します。
偉大なる治癒が起こった夜
偉大なる治癒が起こった夜
「ツァイトゥングスブリッツ」1949年9月 グルーニングの成功に関する特別号
次の文章をもって、みなさんに、私たちの特別取材、何百人という人々に8月27日、28日にトラーバーホーフにおいて偉大なる治癒を与えてくれる男、ブルーノ・グルーニングを15時間どこまでも追いかけ客観的に観察した結果の真相記事をお届けいたします。
本日最初に起こった治癒
我新聞社の特派員が報告します。既にもう午前中、グルーニングを待ち焦がれていた多くの治癒を求める人々は、彼らのためのグルーニングの短い演説を聞けるという大幸運に恵まれました。その結果、彼らは正午には「我らのグルーニング!」とシュプレヒコールをするに至りました。しかし私はこのことについて報告したいのではありません、そうではなく、私自身が体験した二度と無い、忘れられない、午後と夜に起こった事について報告いたします。
なんとなく空気が異常に緊張していました、どういう訳か今日、土曜日は特に多くの病人たちや好奇心の強い人々がトラーバーホーフと、その広場に集まっていました。そしてこの緊張感はグルーニングが今晩、もう一度短い演説をするということがわかった時点から刻々と強まっていきました。既に撮影機材がバルコニーやテラス、そして駐車場に設置され、人々がどんどん流れ込んできました。
私はこの間に、新しく起こった治癒について聞き回り、それらの起こった治癒をセンセーショナルな記事にするのではなく、読者とグルーニングをとりまく人々の為、冷静にルポルタージュする事が私の義務であると思っています。
ここ、ローゼンハイム、ミュンヒェナー通り42番地のヴュルストル夫人が、彼女は今日の昼まで体が麻痺していて、体を曲げたり、足を床から持ち上げる事が出来なかった、と信用できる報告をしました。喜びに輝く彼女は、グルーニングの演説の後、初めて他人の助けを借りずに夫の所へ歩いて行く事が出来、他の健康な人と同様に、身をかがめることができました。
ミュンヘンのハース氏と似たような事例では、横たわっている状態しか知らない、そして車椅子を使用していた女性が車椅子から立ち上がり、最初の歩行練習を始めました。
私は知り合いの机の前に座っていました、この人の妻はミュンヘン・ライムに住んでいる映画女優のカリン・レムベックで際立った美人のブルネットの髪の女性で、全員に、「ここに長期滞在」している人として有名になっていました。彼女は午前10時にグルーニングにかけた電話を通して受けた、彼の遠隔治療について語りました。彼女の左腕の神経は数ヶ月前から麻痺していたのでした。トラーバーホーフにグルーニングが到着すると同時に、グルーニングの「力の輪」は一瞬にして、そして突如として効力を発揮し、L夫人の血液が熱くなったり、冷たくなったりして体内を流れ、彼女は思わず叫び声をあげました。「あらっ、私の腕はどうなったの?もう何の症状も感じない!」- もう病が「行方不明」となってしまった、麻痺していた腕は - 以前はテーブルの高さまで持ち上げることが出来ず、意思と関係なく勝手に手が顔にいってしまったりしていたのが - すぐになんなく彼女の大きな夏の帽子に手が届くようになりました。ここで彼女は感激のあまり、喜びと感謝の涙にむせびました、この涙はすべての言葉に代わるものでした。何時間か後になって彼女はやっとグルーニング氏に感謝一杯の気持ちで握手をする事ができました、しかしこの偉大な助け人は、遠慮深くその感謝を拒否し、「感謝は私にはふさわしくありません、私に力を与えてくださる天上の創造主にこそふさわしいものです。今朝あなたのご主人とこの治癒を起こす事を電話で話しました、神は私の行い無しに、あなたの到着と同時に成されました。あなたの信心があなたを助けたのです、奥さん!」
二人目の婦人、レムベックの近所に住む、ミュンヘン・ライムのワグナー夫人は、4年来の脳塞線が原因で、途中少しは良くなったのですが、左半身の神経が麻痺していました。グルーニングは上の部屋から彼女と取り組み、彼女は庭に居て「遠隔凝視」を受けました。私たちは緊張して成り行きを見守っていました、しかし婦人は雑踏の中で精神を集中する事ができませんでした。この後グルーニングを前にして幾夜か試してみたのですが、同じ理由から満足な結果は得られませんでした。ここでは内面的な心の準備、精神の集中、そして遠隔治療後すぐの再度の訪問が治癒への大変な妨げになったのでした。
続く2件の事例のように、プライベートに再度グルーニング氏のもとに無理やりおしかけ、この偉大な治癒の提供者を前にして、このテレパシーの治療が失敗したら、というグルーニングに対するほんの少しの疑念が、治癒が起こらなかった原因であった事が明白に証明されました。
そして突然、何百人もの人々がひしめきあって立っていました、時刻は夕方の7時30分でした。ゆっくりと夕闇が迫ってきて、馬たちはとっくにくつわを外され、太陽は青い山脈を美しい金色に染めていました。緊張感はどんどん強くなり、もう耐えられないほどでした。ここでグルーニングは短い歓呼に迎えられてバルコニーに立ち、人々に静かにして多くの人々のことをアインシュテレンするために数分間我慢するように頼みました、同時に精神を集中させることも。グルーニングの協力者の中のS氏は、病人たちに前の方に来るように、そしてどのような姿勢をとったらよいかを静かに説明しました。手を広げ、ひざの上に置くこと、隣同士が触れ合わないように、病気の事を考えない、などがS氏からの人々への忠告でした。まさしくこの緊張と期待に満ち溢れた静けさが、そして内なる心の準備が治癒の大成功をもたらすのです。群衆の間にはささやき声すらほとんどありませんでした。この可哀そうな苦しみに満ちた人々、外面的、内面的な苦痛を背負い、自分たちが治癒される瞬間を多かれ少なかれしっかりと信じて待っている、この信心に溢れた状況と雰囲気を描写するのは不可能です。
この間、ドキュメンタリー映画の撮影の準備に15分間が過ぎました。その数分間の間に、人は人生一度の体験だと思い、自分の心臓だけではなく、隣りにいる人達の心臓も同じくドキドキするほど の強い期待を持っていました。グルーニングの協力者の一人が、合間に一人一人にどこからやって来たのかを尋ねました。ドイツ中のあらゆる地名が挙げられました、アルゴイ地方、シュヴァーベン地方、ケルンやフランクフルト、南部バイエルンの南部、北東部、ボーデン湖、ワアターカント、更にベルリンから、そしてもちろん地元の人々が来ていました。後に起こった事で、ブルーノ・グルーニングにとって特に喜ばしかったのは、昔の戦友を群集の中に見つけた事でした。その戦友は、グルーニングとカレリィーンとフィンランドで、そしてロシア軍の捕虜になるという厳しい運命を共にしなくてはならなかった人でした。群集は再度、グルーニングにはいかなる質問もしてはならない事、グルーニングの話に神経を集中する事を求められました。
グルーニング、待っている人々に話をする
さて、完全に日が暮れました。あらゆる方向から撮影用のライトが照らしていました。撮影機が静かに回りだしました。その他の物音はいっさいせず、全員の目は一斉に、招待主、協力者、そして治癒された人々に囲まれてバルコニーに立つ、グルーニングに向けられました。数分間の深い静寂があり、その中で人類の偉大な助け人は手を組んで空を見つめていました。それから彼は彼を信じて治癒を求める人々、一人一人の興奮している顔を見つめ、彼らとの完全なる繋がりを取りました。
そして、グルーニングは例の、人を虜にする温かい、感じの良い声で、簡単ではありましたが、信仰深い言葉で話し始めました。
「私の愛する救いを求める人々よ!毎日がそうであるように今日も、治癒を求め、そして治癒を得るであろう不幸な苦しみを背負っている人々がここに集まって来ています。しかし又、自分は疑っているのだと知りながら、只の好奇心でここに来ている人々もいます。私はそれをはっきりと感じ取っています、そしてその人々に、自分の疑いを取り、まず事実を確信する事をお願いします。ここは見世物や、人を驚かせる安っぽい公演をする場所ではありません、それには今はあまりにも深刻すぎます、私の周りにいる人々の苦痛は大きすぎます。
私は誰もここに呼びませんでした、その反対です。私はみなさんに、安定した状況の中で治癒を与える事ができるその日まで、待つ様にお願いしました。私を信じられない人は、ここに来る必要はありません!
私は、みなさんの中の多くの人々がすでに今、治癒への途上である事を知っています。私は今、この地、オーバーバイエルンにとどまろうと思っています、そして私に公に治癒する事への許可が下り、多くの診療施設が設立されるまで我慢して待って下さる事をお願いします。しかし治癒される権利のある人は、神への信仰心のある人です。残念ながら、何年もこの信仰を失ってしまい、神を誹謗する人々がいます。
私はみなさんに、知るべき事を伝えます。唯一の医者は、人間の為の医者は我々の神であり、神なのです!神!神だけが助ける事ができます。しかし神は、ひたすら信仰心のある者、苦痛を自分から捨ててしまおうという気のある者だけを助けます。みなさんは、この小さなグルーニングを信じる必要はありません、しかし私を信頼しなくてはいけません。私はみなさんからの感謝を受けたくはありません、そうではなく感謝は当然神だけに向けられるべきです - 私はただ、私に与えられた義務を行っているだけなのです!
みなさんは啓蒙されていないので、私から、みなさんが不安とお金を家に置いてくる事、しかし私が奪い取るべきみなさんの病気と時間を持ってこなくてはいけない事を教えましょう。みなさん全員が、お互い人間同士の為に存在するべきです。悪意を持たず、間違った事をせず、誰に対しても悪事を行わず、決して妬んではいけません。この地上における最高で、最大の賜物は、財産でもお金でもなく、それは健康です。健康は地上の全ての宝物を合わせたよりも価値があります。みなさんは私の協力者から、最高に力を感じるにはどのような姿勢を取ったら良いか聞きました。私はここで公に治癒を起こしたくはありません!私は先ず、公に助ける事の許可が得られる事を明確にしたいのです。しかし今まで、私の周りに来た人々は健康になってしまいました。みなさんは自分の病気を私に言い並べる必要はありません、私はみなさんを透視する事ができ、みなさんに関する全てを知っています!」
グルーニング氏は、彼の力の効力に関する簡単な実験をいくつか示し、その力の働きの素晴らしさは人々の歓呼により証明されました、そして彼は続けます。誰もが、その人の望んだものを受け取りました。しかし、それは父なる神と繋がったと感じた人だけに起こりました。私はここで、全てが上手く行き、みなさん全員を助ける為、医者と緊密に協力し合って仕事をする診療所を沢山作りたいと思っています。家族のために私の所に来たみなさんに申し上げます、「私は既に、みなさんの家族の所にいます!みなさんが家に帰ったら、病人が別人のように元気になっているのを確認する事でしょう!」長いこと鳴り止まない拍手は、彼の無私なる言葉に対するものでした。
グルーニングの所に現れた二人の政府の代理人
ここで全く予期していなかった事に、背後から突然ミュンヘンの警視総監のピッツアー氏が登場しました。「親愛なる、ローゼンハイムのみなさん!今から私が今日、自分で体験した事をお話します。私はここへ、病人としてやって来ました、しかし、バイエルンの公務員、そして偵察員としてでもありました。私は自分の人生の中で、一瞬に、しかも私の体に触れる事も無しに下された、ブルーノ・グルーニングの診断の様に、これほど傑出した診断を受けた事はありません。私個人としては自分の治癒を固く信じています。そして政府の最高部に至るまで、ここで起こる事の責任を取りましょう、ある特定の人々にとって、誰のことを言っているのかおわかりでしょう - 都合が良いか悪いかは問いません。決定的に重要なのは、病人が助けられる事にかかっています。私は4年来、日夜出動を命じられ、重い病気になりました。この病気を治すために、私は自分の財産を既に半分無駄に使ってしまいました。私は自分の為、そしてみなさん全員の為にお話しします - 全員に知れ渡るように、なぜなら私は全うな人々を守る為、健康でいなくてはならないからです。グルーニングさん、私はあなたの助けに感謝しています。強い信仰心と開いた心を持って、あなたの所にやって来る、多くの人々を助ける事ができる様に、神があなたに力をお与えになります様に。
トラーバーホーフの夜に起こった治癒
さて、グルーニングはバルコニーの上から下にいる重病の、そして体の麻痺している気の毒な人々に取り組んでいました。
もう何日も、トラ-バーホーフで待っているバード・アイブリングのモニカ・バウムゲルトナー婦人は、3年前にワッツマン山から転落して背骨を怪我し、下半身が完全に麻痺していました。大汗をかいて、大変な努力で、ここ数年来初めて、少しの間ではありましたが、立つ事ができました。 - ここでグルーニングは、他の麻痺や、身体障害のある病人たちに、手足を動かしたり曲げたりするように要請しました。私は苦労して、気の毒にも身体障害者であるローゼンハイムのターラーブロイのゲオルグ・アイグナー氏の所までたどり着きました。彼はうれしそうに顔を輝かして、歯を食いしばって乾いて固まってしまっていた関節を曲げ、得意そうに左の踵を右脚のひざの上に、または交互にのせて私に見せてくれました。これは、疑いを持って来ていた人々全員を確信させた、2番目の出来事でした。バート・アイブリングのパン作りのマイスターは、一年間あった神経衝撃が、後少しの症状を残して消え去るまでになりました、この少し残った症状は数週間後に無くなるとグルーニングは彼に約束しました。
グルーニングは再度、驚嘆している人々に話します。「みなさんの知り合いや親戚の人々に回復の様子が見えたら、すぐに施行日である今日の日付を書き入れた報告書を私に送って下さい、それによって今日どれだけの治癒が起こったかを私は知りたいのです。私は神の名において、みなさん全員に、みなさんの全快と安眠をお祈りします。」
これをもってこの偉大な治癒を起こす男性は、彼の協力者と共に部屋に入っていきました。ここでは早朝から少しの休憩もなく、医者と報道陣から提出された事例について、彼の成功した治癒術をさらに証明するために行われました。
私が今まで病人と密接な関わりを持つ為、その人々のそばにとどまったりしている中で、ハーヴァルト家の招きで、最も難しい事例に直接立ち会う事ができました。控え室に待つ人々の行列を横切って、私はプライベートの部屋に立ち入りました。立ち入った途端に、私はしっかりした客観性を持っているにもかかわらず、ある種の雰囲気から逃れる事ができませんでした。するとグルーニング氏が私に向かってこの部屋に入って来たのです、しっかりと私の手を握りしめました。私はしばらくの間、彼の強い、とは言え、非常に優しいまなざしが私の体中を走り抜けるような感じがしていました。彼の私への最初の言葉には、彼が新聞雑誌を通して経験した事への大きな失望が表れていました。
重病事例の治療
何年も前から、ほとんど失明している8歳の少女、ミュンヘンのエヴェリン・グシュヴィンドは重症の目の角膜障害で、今までに5回手術を受けました。ブルーノ・グルーニングが数回手がけた後、その日のうちにメガネ無しで、今まで以上に目が見えるようになりました。例えば500メートル先を走る電車が見えました。左目の膜は、グルーニングが彼女の左手を眼帯に当て、さっと離すことにより、エヴェリンちゃんはその膜から解放され、部屋にある調度品を全て言い当てました。
ここでグルーニングは、病人の付添い人の中から3名の男性にバルコニーに来るように言いました。彼らは自分が面倒をみている病人たちのことが気になっている様子でした。グルーニングさんは空になったタバコの箱の中の紙を自分で丸めて作った、紙玉を分配しました、この玉には磁石のような力が入っていて、すでにミュンヘンの闇市で売られるほど人気がありましたが、もちろんそれは真っ赤な偽物でした。この「力の込められた玉」は距離に関係なく、病人とグルーニングの間に繋がりをつけ、そして遠隔治療のために絶対に必要とする精神力の集中を楽にさせてくれます。
こうしているうちに、この一日が東の方から暮れ始めましたが、マイスター(グルーニング)は未だに疲れを見せていませんでした。彼の忍耐力が人々にも広がっているのは明らかでした、何故なら誰もこの「奇跡の場所」から去ろうとはしなかったからです。眠るという言葉はグルーニングの辞書には存在しない言葉の様です。額から彼の特徴のある頭の上を通って、後頭部に及ぶ素早い手の動きがどんな少しの疲れも取り払ってしまうようでした。絶え間なく、彼の手の中ではタバコに火がついており、彼の食事の量は本当に少量でした。
グルーニングは度々、裏庭の重病人の所に呼ばれました、そこにはバート・トルツの35歳の男性、フィッシュハーバー氏が何日間も最後の頼みの綱であるグルーニングを待ちわびていました。ホブスレーとオートバイの事故によりF氏は部分的に体が麻痺していました。この麻痺は1949年5月からどんどん悪化していました。3人の医者の鑑定、著名なミュンヘンの教授たちの意見は、ガソリン中毒か背骨の怪我、中枢神経の腫瘍か、ある医者が新たに確認した間脳の怪我かの間でゆらいでいました、この医者が彼を今日、グルーニングのところに連れてきたのでした。すでに2ヶ月前にF氏はヘアフォルドにグルーニングを訪ねていました、そこで彼は治癒される事を約束されていました。ヘアフォルド訪問後、長年の薬物治療が原因の腎臓障害が完全に消えてしまいました、他の病気は部分治癒でした。この朝 - グルーニングさんは治療の準備を既に前夜、遠隔療法で行っていました - F氏は激しいむずがゆさを左手と左ふくらはぎに、そして同じく前足にも筋肉痛の様なものを感じていました。
決定的治癒、又は好転が起こらない理由をグルーニングはまさしくセンセーショナルな「透視能力」をもって解明しました。「あなたの好感をもてない友達夫婦に用心しなさい。その奥さんは黒髪で、主人の方は濃い金髪を分けています、背の高さは170cmぐらいです。この男性は - もしあなたが正確に知りたいなら - あなたがここから帰った2日後の夕方6時にあなたの家に来るでしょう。あなたは - あなたの家に入って戸を閉める前に - 白いハンカチで鼻をかむのでその男性だとわかるでしょう。この男性が今日まであなたに起こるべき治癒の邪魔をしています、彼はこの事ついて既に否定的に話をしているからです。この人物があなたと私の間に立って、私たちに必要な繋がりの邪魔をしています。この男性を避けなさい、そうすれば、あなたは間もなく健康になるでしょう。」
治癒を与える男性の、別れ際に私への参考のためにと、彼の将来の活動の方向を示した最後の言葉は、こうでした。「私は病人たちを次の言葉をもって数分間で治したいのです。神のご加護を!あなたは病気でした!さようなら!」
A.シュテッヒャー
編集部の解説
意見表明なしの我々特派員の報道記事です。私たちの読者がこの事実の描写に基づいて、自分自身でグルーニングの「治癒術」に関して、多くの病人や身体障害者の為、彼が「自然療法の医者」として、ただちに所轄の国務省の許可が必要かどうかを判断してください。
グルーニング氏は今のところ、ローゼンハイム近郊のトラーバーホーフにとどまる予定です。私たちは適当な時期に再度「特別版」を出すつもりです。
グルーニング氏への手紙その他の仲介は、私たちには出来ません。もちろん誰でも手紙(写真無し)、又は他の通知を彼の住所宛てに出す事は可能です。ブルーノ・グルーニング様、ローゼンハイム・ランド、トラーバーホーフ。巷に出回っている住所は間違いです。個人訪問をグルーニング氏は公の許可が出るまでは控えてほしいと要請しています。
「ブルーノ・グルーニング - 彼の言葉が病気を追放する」
「ブルーノ・グルーニング - 彼の言葉が病気を追放する」
「ダス・ノイエ・ブラット」1957年5月9日
ホルスト・マン博士の報告
はじめに、次の事をはっきり申し上げなくてはなりません。これは、ブルーノ・グルーニングという人間の話ではないという事です。ダス・ノイエ・ブラットは、彼をヒーラーとして大げさに褒め称えたり、あるいはペテン師として簡単に片付けたくもありません。私たちの任務は、ブルーノ・グルーニングが起こした多くの治癒を調査する事、批判的な目で観察すれども、他のどんな意見にも惑わされず、ただ誠実な努力をもって、真実を究明する事です。何故なら苦しんでいる人々はこの真実を知りたいと望んでいるからです。
「ダス・ノイエ・ブラット」はこれをもって、現在我々が直面している、センセーショナルな事件の幕を開けます、何故なら、これは事実だからです:
・10年以上にわたり、ブルーノ・グルーニングは証明可能な治癒に成功しました。起こった治癒の数は 計り知れません。それは何千件にものぼります。
・この男性は何度も自分の行いが原因で法廷に立たされました。人は彼を無罪にしなくてはなりませんでした。彼は今自信をもって、更に新しい、物議をかもし出している裁判に立ち向かおうとしています。
・ドイツの至る所にグルーニング協会が存在します。メンバーは、治癒のみならず、心の支えを与えてくれるこの男性を尊敬の目をもって見つめています。「ダス・ノイエ・ブラット」はこれらの人々と話をしました。我々は批判的な目で成功した治癒を調査しました。我々は医者や科学者たちに質問し、ブルーノ・グルーニング自身とも話をしました。彼は、今まで誰も手に入れることのできなかった資料を自由に使うよう私たちに提供してくれました。
それは1953年11月27日、フースムから東に14km離れた小さな村、オステンフェルドにおいての事でした。重苦しい緊張感が村の飲食店の中に充満していました。その空気は、長椅子や椅子にびっしりと座っている人々の心に、まるで鉄の留め金で留めたようにくっついていました。その人数は100名ほどだったでしょうか、もしかしたら150人だったかもしれません。
彼らはオステンフェルドと、レンズブルグとシュレースヴィグ、フースムとカッペルンの間の周辺の村々からやって来ていました。ブルーノ・グルーニングが来た!という情報がすぐに広まりました。彼はまた病人を治癒したそうだ、もしかしたら私の事も助けてくれるかもしれない、又は通風のある父親を、又は医者がどうにもできない子供を。これが今夜ここに集まっている人々の思いだったに違いありません。
ぼんやりとした明かりが部屋を少しでも明るくしようとしているようでした。その明かりは期待と信心に満ち溢れた人々の顔を照らしていました。しかし、まだ疑っている人や、好奇心のある人々の目も照らしていました。彼らは特に何の期待も持っていませんでした、ただ後で、1954年のこの長い冬の夜に皆と一緒にこの話題について話せればよかったのです。これらの村々では殆ど何の事件も起こりませんでしたから、人々の会話はいつも、お天気の事、農作物の収穫の事、家畜や病気の事だけでした。誰でもいつかは病気になる可能性がある - もしかしたら、グルーニングが逃れる道を教えてくれるかもしれない・・・。
人々の絶え間ないつぶやき声は人々で溢れている会場の天井にこだまし、煙のベールを散り散りにしました。祈る時、ある人は手を強ばらせていました。他の人々は自分の内心の緊張をほぐすために冗談を飛ばしていました。又他の人々は連れてきた病気の家族の面倒をみていました。
最後列だけが大変静かでした。ここには一人の重病人が運び込まれていました。病に苦しめられ、彼は椅子にも座れない状態でした。彼のために床に毛布が敷かれ、寝床がつくられました。人々は彼の事をよく知っていました。ノルビィに住んでいる農夫のティース・パッシュでした。人々は彼の残酷な運命と、時々何週間も寝たきりになるほどの痛みがある事を知っていました。
突然人々の話し声が止み、ブルーノ・グルーニングが会場に入ってきました。彼は170㎝位の背丈で小柄に見えました、彼が足早に前の演壇に向かう姿は、愛らしくさえ見えました。彼の着ている服は、よく見る写真の通りでした。ただ目立ったのはウェーヴの頭髪が重々しい頭と、細面の血の気のない顔の中で、まるで燃えている様に見える、きらきら輝く大きな目でした。
そして、それから起こった事の全ては、好奇心やセンセーション好きでここに来た人々の期待に背く事でした。「私の愛する友のみなさん!」とグルーニングは集まっている人々に話しかけました。この声はおだやかで、メロディーにのっているようで、ドラマチックでも激情的でもありませんでした。その声は、治癒の事も、この声の持ち主が成し遂げた不思議な出来事についても話しませんでした。この声は、彼を褒めもせず、また絶望している人々を救うためによみがえった救世主として彼を賛美するわけでもありませんでした。グルーニングは信心と彼の力について話しました。それを彼は、誰もが理解し、受け入れ、そして消化できる簡単な言葉で話しました。彼は出来事を絵のように話し、そして例えを用いました、しかし彼は派手な色で出来事を描く事はしませんでした。
一時間近くグルーニングは話したでしょうか。誰も時計を見ませんでしたし、時間を訊ねもしませんでした。それから彼は一人一人の聴衆の方に向きました。「何を感じましたか?」と彼は尋ねました。小声でおずおずと、または歓喜に満ちた良い返事が返ってきました。強ばった手に、先程配られた錫箔玉を持った人が、奇妙な温かさを感じたと言いました。ほかの人々は震えや痛みがあると言いました。また他の人々は否定的にただ頭を横に振っていました。
数人が、自分の病歴を話そうとしました。しかしこの大きな結び目のネクタイに黒っぽい絹のワイシャツを着た男性は、いつも聴衆に気を遣う様な人物ではありませんでした。時々彼は、激しく病歴の話を中断させました。「私は病気の治療はしません!病気は無秩序です。自分自身と神の繋がりを正常にしなさい、そうしたら治癒が起こらないということはありません。善い事を話しましょう、私たちの輪の中にいる事を心地よいものにしましょう!」
ブルーノ・グルーニングはテーブルからテーブルに、椅子から椅子へと歩きまわりました、それから彼は向きを変えました。最後の列からあがった叫び声に彼は足を止めました。「グルーニングさん、あなたはこの人を忘れています!」それはオヴシュラ村の村長で、立ち上がりながら、彼の後ろの床に横たわっているティース・パーシュを指差しました。
グルーニングは病人に近寄り、かがみこんで他の聴衆に尋ねたのと同じ質問をしました。「この講演の間に何を感じましたか?」痛みのために床に横たわっていた男は頷き「はい」と言いました。「突然体中が熱くなりました、ただまだ左脚の半分が氷のように冷たいままです、それから右手がむずむずしました。」グルーニングは頷いただけでした。動かず、なぐさめもしなければ、何らかの指示も与えませんでした。足早に会場を横切っていきました。
すると観客の中の誰かが「皆さん、椅子から立ち上がってグルーニングさんに感謝しましょう!」と叫びました。椅子の足が床をこする音が聞こえ、テーブルが動かされました。すると信じられないことが起こりました。ティース・パーシュが起き上がったのです。彼は他の健康な人たちと同じように立ち上がりました。彼の顔つきは、突然苦しみから解放されていました。彼は隣人の助けを両手で拒否しました。彼は自力でやってのけたかったのです。そして彼はやってのけました、苦労すること無く、努力すること無く - 痛みも無く。
彼はそこにまっすぐに立ったまま、まるで勝ち誇ったように、彼の周囲のあっけに取られている人々の顔をうれしそうに見回しました。それから彼はしっかりした足取りでカウンターに進み、「ブランデーを一杯」と注文しました。彼は、驚きと新たな希望とが一緒になった様な、歓喜に満ちた声で、まるで叫んでいる様でした。「おやじさん、ブランデーを一杯!」
ノルビー、1957年4月18日
私の目の前にはブルーノ・グルーニング宛ての感謝の手紙の入った書類入れが置かれています。この書類入れの中には、グルーニングの事を、ひどい苦痛を治してくれる彼らのヒーラー、そして救い主と思っている人々の、病気に関する手紙が58通入っています。この手紙は小さな地域、オストフェルドと近隣の村からのものです。手紙は1953年の冬から、1954年の春にかけて書かれたもので、農民、主婦、運転手、石工職人頭、その他の職人たちからのものでした。彼らの子供たちに起きた、素晴らしい治癒についても書かれています。
私の目が今読むものを、私の理性は信じようとしません、とても理解できない内容です。人々は彼らの病気、心臓、血液循環の病気、リューマチ、静脈瘤、ふさがらない傷、頭痛、発疹、血栓症、股関節炎、脂肪過多症、麻痺、皮膚硬化症、椎間円板障害、胆嚢障害、肺結核などを列挙しています。これら全てが、ブルーノ・グルーニングに治してもらいたい残酷な病気の種類です。
私は息を呑みました。3年間寝たきりだった、そしてブルーノ・グルーニングの講演の後、突然立ち上がり治癒されたというティース・パーシュの名前が目に飛び込んできたからです。私は読みました。「1944年以来、つまり10年間私にはかつて戦時中、東プロイセンでかかってしまった神経痛とリューマチのひどい痛みがありました。多くの医者や民間治療師にかかり、薬草茶など飲みましたが、全ては単に痛みを和らげただけで、治癒には至りませんでした。昨年の秋には動けないほど痛みがひどくなり、医者は坐骨神経痛と椎間円板障害と診断しました。4週間、何の良くなる見通しも無いまま寝ていた時、当時11月27日、グルーニングさん自身が来場するという、オステンフェルドに行こうと決心しました。私は歩く事も座る事もできなかったので、そこで2時間、床に横たわっていました。グルーニングさんが会場に入って来た時、私はすぐに痛みが和らいだのを感じました。そしてグルーニングさんの200人の人々を前にしての講演が終わった時、私は他人の助け無しに一人で立ち上がる事ができ、杖無しで会場を後にする事ができました。この奇跡によって私は今、健康になり、仕事に専念する事ができます。私はグルーニングさんを通して、自分の健康を再び完全に獲得できた事を心から感謝しています。ティース・パーシュ、ノルビー
この男性はその後どうなったのだろうか?彼のとっさの自然治癒は本当に完璧な最終的治癒であると証明されたのだろうか?本当に奇跡の治癒なのだろうか、それともただブルーノ・グルーニングによってかきたてられた彼の信心が、痛みの泉を涸れさせただけで、もしかしたら後になって改めてもっと強い痛みの泉が湧き出ているのではないだろうか?
数時間後、私はノルビーのある農家の一室に彼と向かい合って座っていました。生き生きとした、朗らかな男性、年の頃なら40から50歳の間でしょうか。彼は丁度、汽車と自転車をつかって、フースムの自動車教習所から帰って来たところでした。
彼は率直に話してくれました。彼の最初の言葉が、治癒は持続されているかどうかという質問をする前に、その答えを出してくれていました。「私はグルーニングさんに心の底から感謝しています。今日私が再び仕事を楽しんですることができ、健康であるのは彼のおかげです。」
ティース・パーシュにはブルーノ・グルーニングに感謝する十分な理由がありました。何故なら彼が私に、もう一度彼の過去の苦しみの時代の思い出話をしてくれた時、彼の病気がいかにひどかったがわかったからです。彼は昔、戦時中に最初の症状が出た時、あらゆる事を試してみました。しかしリューマチは悪化してゆきました。背中が曲がり始め、医者たちは注射で苦痛を和らげる事しかできませんでした。
「当時私はどうしたらよいのか、わかりませんでした。」とティース・パーシュは語りました。「症状は何度もぶり返し、グルーニングの名前を聞いた時、彼だけが私を救える!と確信しました。オステンフェルドに行く為、車の中に押し込まれ、痛みを我慢している間も、グルーニングが救ってくれると信じていました。」
「あなたはその後医者の所へ行きましたか?」と私は真っ黒に日焼けして、今は立派に楽ではない仕事に再び専念しているこの農場主に尋ねました。ティース・パーシュは笑って「どうして、医者に行かなくてはいけないのですか?」と反問してきました。「私は健康ですよ、完全に!」
それでも私はその後、彼に長い間、注射をしていた医者に尋ねました。「その通り」とその医者は答えました。「パーシュさんは病気でした。彼には神経痛がありました。治癒されるには彼にとって強い心のはずみが必要でしたが、それをグルーニングが彼に与えたのでしょう。」
私の好奇心が目覚めました。この件は例外なのだろうか、たった一つの成功例なのだろうか?私は他の病人たちを訪問しました - 私は新しい驚きを体験しました。これについては来週報告する事にいたします。